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まずお生まれのところから、お話を...
東京都文京区、2月29日生まれ。戸籍上は3月1日。ずらすみたいですね、最近は知らないけど。
お母様が三味線の師匠だったそうで
うん、日本舞踊と三味線のお師匠さん。
お父様もその関係の方ですか?
いや、別に。母親に付き合って長唄を唄っていたくらいで...音楽の才能ゼロの人ですね、父親は。サラリーマンで。

母親は、もともと広島の人間なんですが、確か「波田舞踊団」ていう、ようするに宝塚の前身みたいな少女歌劇っぽいのものを子供の頃からやってた人で、そこで楽器を一通り全種類やらされたみたいで。日本舞踊とか三味線も入ってるし、洋楽のギターとか管楽器とかも。

佐久間さんが一番最初に触られた楽器は何ですか?
楽器として一番最初に触ったのは三味線か、あるいは、僕の兄貴が小学校一年生か小学校行く前からギター始めてて、そのギターかどっちかだと思いますね。ただギターとかには全然興味なくて、弾けなかったですね。自分からやった楽器はピアノ、っていうかオルガンっていうか...
御自宅にあったんですか?
オルガンはたしかありましたね、足踏みのオルガンが。それは僕がピアノを始めた後かも知れないですけど。ちょっとよく覚えてないですねえ。
じゃあ、ギターよりもキーボードの方が先で?
先ですね、自分で楽器として触ったのは。
ピアノを誰かに習われたりとかは?
小学校1年生の時に習いに行って、1ヶ月だけやりましたね。どこかの音大の先生だったんですが、1ヶ月でちょうど先生が引っ越したか何かの事情でいなくなったのか...子供だからよく 分からないんですけど。
 他に近所に先生がいなかったから1ヶ月で終わっちゃったんですけどね、その時は天才でしたよ、はっきり言って。っていうのは、初めてピアノの先生の家に行って、何か弾いてって いわれた時に『白鳥の湖』が弾けたんです。自分でアレンジして勝手に。それも今にして思えばAマイナーじゃなくてCマイナーで弾いてて。で、一ヶ月でバイエル2冊終わったのかな?自分でもなんでか 分からないけど、初見(しょけん)で弾けたの。

 

“絶対音感”はおありなんですか?
絶対音感はないです。相対音感しか。だから、相対音感で弾いてただけじゃないかなぁ。でも、譜面読めたのはなんでかっていうと、理由は、小学校1年生の時の一番最初の音楽の授業をいまだに僕は覚えていて、その時に五線譜の ことと、リズムのことと、これがドの音で、っていうのを習ったのね。それをはっきり覚えていて。それ以来、譜面読めたから。
今まで聞いていたドの音を「ド」として認識したということですか?
うん。だから、オルガンのこれがドの音ですよ。で、それがト音記号のこの音ですよ、ハ音記号のここですよ、っいうのを多分一番最初の音楽の授業で習ったと思うの。で、ピアノ習いに行ったのはそれより後だから、もう読めたんじゃないかな。
ビアノを習いに行く前に、学校の授業で弾いたことはあったんですか?
うん。譜面は学校の授業でたぶん理解していたんだと思いますね。だから、ピアノを始めた頃のことを思うと普通じゃないと思いますね。
習いに行かれたのはピアノが初めて?
そうそう。
それはご自分で行きたいと思って?
行きたいと思って。近所だったんで。

その時代ってまだ世の中貧しいし、うちも貧しかったし、そんなお金かかることやらせてもらえないと思ったけど、たまたま「いいよ」って行かせてもらえて。そういうの、お金持ちのすることだったからねぇ。

そのままピアノやってれば人生違ったでしょうね。四人囃子なんか入んないですんだでしょうねー(笑)。で、1ヶ月で終わっちゃったんで、後は学校のオルガンとかをチョロチョロと...

佐久間さんの場合、「他の子供が外遊びしている時もピアノの練習」みたいなイメージがあるのですが...
う、う〜ん。あ、オルガンがあったのはもっと後ですね。最初は家で紙鍵盤でやってた。バイエルの付録で付いてたやつ。紙鍵盤で練習できたから、イメージとして音感はあったんでしょうね、 たぶん。
では、小学校の間は特に音楽的な活動ごとはなく?
ないけど、音楽の授業は好きだったんで。器楽合奏とかでアコーディオンとか笛はかなり得意でしたね。
それでは音楽を学校の授業以外で自主的に始めるのは、中学くらいからですか?
そうですね、実際に始めたのはね。ただ、子供の頃、小学校の頃にちょうどツイストだとか、プレスリーだったりとかそういう時代だったんで、そういう洋楽の影響はかなりデカイですね。フィフティーズ、シックスティーズって言うか...
ご家庭でお母様が邦楽をなさっていたわけですから、洋楽に親しむ機会はラジオからですか?
たまたま僕の叔父がビクターの人間だったんですよ。たしか洋楽の担当だったんだけど。で、サンプル盤しょっちゅう持ってきてくれて。それをしょっちゅう聴いてましたね。
その頃のビクターと言うとエルビス・プレスリーですか?
とか、あとはその当時の新しいものを。例えばドドンパであるとかそういうものを持って来てくれて...
邦楽をやっているから洋楽を嫌うとかそういう雰囲気は?
いや、全然なかったですね。母親も洋楽やってた人だし。母親も譜面読めて、ギター弾いたりしてたし。
洋楽を初めて聴いた印象というのは覚えていらっしゃいますか?
うーん、それは相当小さかった頃ですからねぇ...。

よく覚えてるのはそれが最初にもらったものかどうか分からないんですけど、多分昔だから、洋楽っていっても今でいうサンプラーっていう色々なアーティストが入ってる、中は名前が書いてない白盤なんですけど、そこに『引き潮』が入ってたんですよ、誰の演奏か分からないけど。それを聴いた時にすごいショック受けたのを覚えてますね。多分、小学校2、3年生の頃。

それが洋楽というかポップス的な最初の思いで。すごい怖い音楽だったんですよ、子供心に。なんでこんなに怖い感じがするんだろうって。今聴けば綺麗な音楽なんだけど。要するにメジャー・セブンスが怖かったんだと思うの。 「ソミシ」っていうメジャー・セブンの響きが。クラシック音楽では聴いたことのない響きだったから。

 

中学の頃にギターを始めたと聞いているのですが
うん、中学に入ってギター始めて。

それで僕の兄貴が1年先輩で、ブラス・バンドをやってたんですね、同じ中学で。彼はサックスをやってまして、僕は兄に対するコンプレックスというのが子供の時からすごくあって。兄は楽器が異常に うまい人だったんですよ、今でもそうなんですけど。今でもギターとかやると僕なんか足もとに及ばない位上手いんですけどね。

で、その当時、彼はサックスが中学生とは思えない位べらぼうにうまくて。僕もサックスやりたかったんだけど。一回はサックスに挑んだんですけど、これは到底追いつけないなと思って。で、うちの兄貴が一番 できなかったのがトランペットだったんですよ。一通り何でもできたんだけど、一番苦手だったのが。それでくやしいからトランペット選んで...

ブラス・バンドに入部した人は楽器を自由に選べたんですか?
うん、僕らのところは。

で、中学はその当時、吹奏楽の優秀な学校だったんですね。同期の人間とか先輩とかでも芸大目指すのが当然みたいなノリがある種あって。ま、実際行かないにしてもね。で、芸大行ったりヨーロッパに留学したりとか、そういう人がいっぱいいて。だから僕も芸大行きかなぁ、みたいに思ってて。

で、中1でトランペットを始めてから半年くらい遅れてですかね、エレキ。フォークじゃなくて。あ、中2だったかも知れないなぁ。

その当時、同じクラスになった人間で学級委員、生徒会長やっちゃうタイプの「勉強学年トップ、スポーツ万能」っていう僕から見れば、はなはだ嫌な「若大将タイプ」のやつがいて(笑)。そいつが何をトチ狂ったかギターを始めたらしくて。で、僕がギターとか多少できるっていうんで、まあその頃ギターを自分で始めてたんで。最初僕はそいつが嫌いだったんだけど「うちへ遊びにおいでよ」とかいって、二人でベンチャーズの曲を合わせてやってみたら、エレキの合奏っていうのはこんなに面白いものなのかっいうのを初めて知って。

で、それからクラスのあと2人をドラムとベースにして入れて、バンド始めて。それが最初のバンドですよね。最初はベンチャーズですね。 それから直ぐにオリジナルやりだして...

バンド名はあったんですか?
「スペクターズ」。その相方が付けたんだけどね。

その彼とは、その後高校もずっとバンド一緒にやってて。まぁ、ようするに同じバンドなんだけど名前を変えて。彼とは高校は別だったけど。彼は勉強が できるから。

中学でトランペットやってた時に自分はそのまま芸大行くんだろうなってのはあったんだけど。芸大行って留学コースっていうのがね。で、エレキを始めた時にもう大学うんぬんじゃなくて、音楽を職業にしようというのがありましたね。音楽家になるなっていうのがね。

音楽の分野は問わなかったんですか?
うーん、ギター始めてからは、もはやクラシックではないな、と。ようするに再現音楽ではないな、と。楽器としてはトランペットでも何でもいいけど。

ところがトランペットをその後高校行ってからあきらめる過程に至るんですけど、それはなぜかっていうと、トランペットで再現芸術やらないとするとジャズに行くしかなかったんですよ。で、ジャズっていうのはその当時僕にとっては一番嫌な音楽で。ジャズだけは行きたくないっていうのがあって。

ジャズが好きではなかったんですか?
うーん、要するに当時まだ子供で、どっちかって言うとかなり「まともな少年」だったんで。まともって言うか、不良っぽくはなかったんで。言動とかはヘンでしたけどね。

ジャズっていうのはロックと違う意味のもっとヤバい不良な感じが、もうちょっとヤクザがらみ的な不良なイメージがしたんですね、陰湿な。クラブのトランペット吹きなものであれ何であれ、もうちょっと麻薬な感じの、大麻と いうより麻薬な感じが。

そういうのがきっと嫌だったんでしょうね。もちろん、理論とか勉強したり、色々と聴いたりしたんですけど、でもピンとこなくて。それよりかは自分が子供の頃に聴いたシックスティーズの音楽、ポップスの方が好きだったんですね、アメリカ音楽の中では。

ジャズを聴いていた時期というのは好きで聴いていたわけではなくて?
うん、研究のため、勉強のために。それは中学生の頃から徐々に。トランペットやってた都合上、聴かざるをえなくて...
 クラシックでのトランペットものってのは、そんなにないんですよ。曲もそんなにないし、割とつまんないもんだし、超絶技法もそんなにないし。超絶技法があったところで、中学生レベルで挑戦するのって 「熊ん蜂の飛行」くらいで。そうするとジャズとかだともっと超絶なのがあって、そういう意味で興味があって。
ジャズに関しての情報は入手できたんですか?
まぁ、それなりに。ジャズ喫茶とかいっぱいあった時代だから。むしろロック情報が全然なかった。

 

ご自分で最初に買われたアルバムは?
僕は、親戚の叔父さんがいつもレコードくれたってのがあるんで、買うのはすごく遅いんですね。一番最初に買ったのは、高校2年生の時にツェッペリンのデビュー盤ですね。 「グッドタイムス・バッドタイムス」。それと一緒にどういうわけか、かたわらにあったジョニー・ウィンター。その2枚がたぶん最初。で、邦楽で一番最初に買ったのは、遠藤賢司の 「猫が眠ってる」と「ほんとだよ」。で、アルバムで初めて買ったのはジャックス。
コンサートとかは?
コンサートはジャックスのコンサートに行ったくらいですね。コンサートらしいコンサートは、たぶんそれじゃないですかね。高2か高3...高2かなぁ。それで、その時たまたま遠藤賢司が前座で出てて、その両方にすごいショックを受けて。すっかりはまりましたね、ジャックスには。

 

学生時代のバンド活動っていうとライブ・ハウスですとか?
いや、ライブ・ハウスあんまりなくて。高校の時や中学のバンドはほんとに遊びで。エレキ・コンテストに賞品めあてで出るみたいな。あと、たまに街の盆踊り大会でやったりとか(笑)、そういうノリ。

あとは中学生の頃から時々頼まれてお仕事でどこかで演奏やったり、個人的にはやってたんで。

大学に行ってからはバンドいくつかやってて、そのうち「万華鏡」っていうグループを茂木とやって。そのバンドはレコーディング途中までしましたけどね、プロ・デビュー決まってて。

それは女性のボーカルの方がいらしたフォーク系の?
そうですね、フォーク・ロックですね、いわゆる。
作曲にもたずさわったりとか?
うん、曲も書いて。茂木由多加と僕で半々くらい作詞作曲して。
作曲を始められたのは いつくらいですか?
作曲は中学1年ですね。初めて曲作って。それはリコーダーの曲でコンツェルトみたいな...
それは吹奏楽部用にですか?
うん、吹奏楽部の自分用っていうか。その曲、いまだに覚えてますけど、今はもう吹けない、そんな難しいやつ(笑)。中学一年の時には吹けた(笑)。もうバロックですね。
その頃から、後々のソロ・アルバムでのバロック系っていうのが...
話が前後しちゃうけど、「リサ」(編注:佐久間さんのファースト・ソロ・アルバム、1984年リリース)で一緒にやってるリコーダーの人は、僕が中学の時の1年先輩。
作曲をしようと思ったきっかけとかは?
いや、特にないですね。
でも、その曲は学校からいわれたわけではなくて、自分で作られたんですよね?
いや...言われた様な気もする。学校で音楽の授業中に発表させられたから。宿題みたくあったのかも知れない。
それで、覚えていればそのタイトルは?
タイトルは何かあったと思うけど、あったとしてもアレグレットとかそんなの。
編曲を始められたのは?
アレンジは何となくでいえば、そのエレキ・バンド始めた時のオリジナル作りだした時に。「じゃあ君はこうやって弾いて、君はこうやって」って。

ブラス・バンド用にアレンジした こともありますけどね。それは実際にみんなで演奏させたかどうか覚えてないですけどね。中3くらいの時に。時々、僕は棒振りやらなきゃいけなかったんで。

やっぱり部長でした?
いや、僕は部長は逃げてたんですよ。
バンド用のオリジナルっていうのはもっとあと?
いや、中学でバンド始めて、メンバー4人揃った、たぶん2〜3ヶ月後には。エレキだから、インストですけどね。僕しか曲書けなかったから。
今でいうと、どんな感じだったんですか?
その当時でいえば、近かったのでいえば、フィンガーズとか、インスト時代のサベージの初期みたいなのとか、成毛滋みたいな。フィンガーズの影響はでかいんですよ、僕。
その後、唄の入っているのになって?
うん、それからだんだん唄ものになっていって。
作詞はいつくらいからですか?
多分、ジャックス観た以降じゃないですかね。それ以前にも書いたかも知れないけどよく覚えてない。自分で覚えているのは、ジャックスの影響以降ですね。
当時、歌われてたんですか?
高校までやってたバンドは別の、ベースの人間が結構カッコよくて。大学行ってからかな、僕が自分で歌いだしたのは。
それはご自分のバンドで?
そう。あとは自分一人で歌ったり。
じゃあ、歌が一番スタートが遅いんですね?
うん、一番遅い。

 

大学のことで、「遠くまで合唱団」というのをおやりになっていたと聞いたのですが...
あれはね、「フォーク・ソング連合」というのが、その当時、和光大学にありまして、その合唱団ていうのは僕がメインになってみんな集めて、ある種「組曲」みたいなのを。

いってしまえば、あの当時の「東京キッド・ブラザーズ」とか「天井桟敷」とかそういうような流れですね。演劇的にはやってなかったんですが、それの音楽版みたいなもの。

じゃあ歌詞の中身もちょっとイデオロギー入ってるような?
まぁ...いわゆる。もうその時代そのまんま、みたいな。
最初から形としては理論的であるけれど、中身はアヴァンギャルドみたいな?
ちょうど時代がねぇ。70年安保の時に僕は大学に入って、5月からもう全学封鎖。1年生の時に僕が取れた単位は4単位でしたからね。全部授業なかった(笑)。まぁ、ゼミとかやってたんですが、僕はゼミはちょっと嫌いで...

大学を和光大学にしたのは、早川義夫がいた大学っていうので選んだんですけど。「社会ヒステリー」のピークみたいな時ですね、その頃は。で、そんな時代の中にあって観た四人囃子って、ものすごいクールだったね。

「一触即発」って社会告発的なものがありますが。
ではあるけど、クールなまなざしですよね。
当時のPAの状態で詞とかは聴き取れたんですか?
うん。
じゃあ、音的な部分だけではなくて、詞的な部分でも良かった?

良かったですね。

 

中学の時に岡井大ニさんが後輩だったんですね
うん。
何か接触はあったんですか?
うん、岡井大ニにドラムを教えたというのがあって。それは、僕が大二にオルガンを借りに行った時に。
じゃあその頃、佐久間さんはドラムの演奏ができたんですね?
それくらいはバンドを始めた頃に。
ではベースを始められたのは?
ベースはずっと後。
楽器の中で一番好きなのは何ですか?
たぶん...どれでも同じですね。三味線やってようが、笛やってようが、テクノやってようが。例えば楽器ではないけれど、コンピューターでテクノやってても、実際にギター弾いてても、同じ種類の楽しさ、同じ種類の興奮はありますからね。でも、たぶん一番好きなのはギターですね。一番楽しいのは。
それはエレキ、生ギター問わず?
うん、問わず。やっぱりギターっていう楽器が一番自分のルーツみたいな感じですかねぇ。
三味線に近かったから、とか?
ではないですね。三味線は全然、教習みたいなところでしか弾けないですからね。
でも邦楽に行かれるか、洋楽に行かれるかで一度悩まれたそうですが...
うん、高校の時に。大学どうするかという時に。
トランペットは、そのジャズのことがあるし、高校のブラス・バンドに入んなかったこともあるし。あと、まっとうトランペットで芸大に行ったとして、その後どうなるかっていうのがある程度見えてきて。結局、先生になるか、オーケストラに入るしかないっていうところが。それで興味なくなってきて。

それより芸大に行くんだったら邦楽の方がまだ面白いんじゃないかって。未知数のものがあってね。で、母親の関係で芸大の邦楽の先生とか色々いたんで、「芸大くれば?」と誘われたりして。

三味線に関していえば、もし芸大行ってお師匠さんになったとしても、毎日着物と三味線持って歌舞伎座に通ってっていう世界が「うん、こりゃ粋だなぁ」って(笑)。実際はやってないんだけど、夢として。同じミュージシャンの中でもこりゃかっこいいなぁって。弟子とかとって...、いいなぁっていう漠然とした妙な憧れがあって(笑)。で、三味線に行くかは結構悩んだんですけどね。

でも多分、そっちに行ったとしてもアヴァンギャルドやってると思うんですけどね、三味線で。押さえとしてそういう、歌舞伎座っていうのが(笑)いいな、素敵だな、なんか文化っぽい香りがするなって。ロック・バンドやるのとはちょっと違うなって。

高校くらいまでは、ギターと平行して三味線も弾いてらしたんですか?
三味線は日常的にいつでも触れたんで。いつでも触れたし、毎日、朝起きる時には階下で三味線の音がしてみたいな状況にいたし。
では、定期的な三味線のお稽古というのは?
お稽古をやったのは一時期だけですね、きちんとやったのは。お稽古は嫌いで嫌いで...
70年代の終わり頃に津軽三味線がちょっとしたブームでしたが、どう思われました?
いや、すごいですよね、やっぱり。で、ちょうどあの当時、僕はもう三味線を弾いてなかったから、うちの母親に「津軽三味線とか弾けるの?」って聞いたら、弾けたんで驚きましたね、 曲弾き(曲芸弾き)が。それまで聴いたこともなかったんだけど、家で弾いてるのは。
伝統的な形からちょっと外れたところに違和感はなかったんですか?
全然。津軽三味線に関しては、どうしても寺内タケシのノリみたいなものを感じちゃうのと、実際80年代くらいまで行っちゃうと、70年代の例えばQUEENのライブ観てて、ブライアン・メイが途中で一人でギター・ソロを延々エコー・プレックス使ってやってたのが、もう津軽三味線だったから。そういうのが結構退屈なもの、みたいなね(笑)。

 

高校のお話なんですが、どちらの高校に行かれていたのですか?
杉並高校。南阿佐ヶ谷の。僕は父親の仕事の都合でいっぱい引っ越してて、ずっと社宅暮らしだったんだけど。

杉並区に行ったのは小学校の頃ですね。一応、吹奏楽部に入ったんですけど、そこはちょっと合わなくてすぐにやめて。あとはクラシック・ギターのクラブとかも入ったんだけどそこもやめて。だから、部活はしてません。

高校の時のバンド活動は中学の時の延長で?
うん、中学の時のバンドの延長ですね。
同じ高校の人とは?
とも、遊びでやったり。でもあんまり面白い人いなくて。

だから中学のバンドの延長と、あと高校の時知り合った別のバンドで茂木由多加と知り合って。彼は僕のバンドの頭いい奴と同じ学校だったんですよ。その茂木がやってたバンドがなかなか強力だったんですけど。一緒に手うちのコンサートやったんですよ、そのバンドと一緒に吉祥寺で。武蔵野公会堂ってとこかな? 多分、高2か高3ですね。

で、その時に対バンの茂木のバンドがドアーズの「ライト・マイ・ファイアー」やってて、彼がボーカルもやってたんだけど、オルガン・ソロを13分弾いたんですよね、横 で計ってたんだけど。それで、とんでもない奴だなーっと思って。その時が初めての出会い。

他のメンバーは知ってたんだけど、茂木はそのバンドに後から入ったのかな、で、茂木が入ってキーボード・ソロやるのを初めて観て。そのころキーボード・ソロなんていうものが存在するとも思ってもなかった時代で。オルガンでソロを十何分やるなんて考えられなかったのに、すごくて。で、なんてすごいやつがいるんだろうと思ってて。

やはりハモンドで?
いや、コンボ・オルガンでしたね。多分、エース・トーンとかテスコとかそういう。それで、コンサート終わった後にすごい仲良くなって。

茂木由多加に関して言うと、その後大学行ってからも付き合ってて。大学の多分2〜3年くらいの頃とかですかね、茂木んちへ遊びに行って、しょっちゅう一緒にセッションとかしてたんですよ、家で。

その時に岡井大ニが現れて。で、岡井大二が四人囃子っていうバンドやってるのを茂木から聞いて。そこで「何やってるの?なんで君いるの?」って(笑)。

あ、中学の時のことを覚えてらしたんですね?
そうそう。で、そこで再会したんですね。

 

その当時、近い地域で森園さんとかいらしたと思うのですが、まぁ、年齢的に違ったかも知れませんが、お話とかは?
いや、聞いたことなくて。大ニと出会って、初めて茂木から四人囃子ってバンドすごいイイよって聞いて。それからバタバタと、森園とか会って。
その頃、岡井さんと茂木さんは交流があった?
そう。既に彼は四人囃子と交流があった。
参加されてたわけじゃなくて?
ううん、じゃなくて。たぶん高円寺あたりのロック喫茶みたいなとこでの仲間だったんじゃないかな。
よその学校の噂で四人囃子の名前を聞いたこととかは?

いや、全然。年下だったし。日本のバンドに僕は全然興味なかったから、それまで。ジャックス以来興味がなかったし。ジャックス以来、初めてショックを受けたのが四人囃子。

 

四人囃子の演奏を御覧になったのは?
72年だか73年だか分からないんだけど、僕の大学の学園祭にきたんですよ。で、それを観たのが初めて。和光大学の学園祭で。
アルバムはまだでていないですよね。
そう、アルバム出る前。岡井大ニと再会した後ですね。たまたま学園祭にきて。その後何ケ所かで観て。単純にファンとか友達として。

で、スゴイなぁって。で、「一触即発 」が出て、聴いて結構ガッカリしたんですよね、ライブと比べると。今にして思うと「一触即発」はすごいんですけどね。

ライブの方が圧倒的に...
そう、圧倒的によかった。

 

中学・高校の頃は何かカバーとかされてたんですか?
うん、エレキ始めてベンチャーズ、寺内タケシ。バンドでいえばストーンズもやったし、ヴァニラ・ファッジも。当時のヒット曲を一応。ジミヘンやったりツェッペリンやったりして。ジミヘンやってだいぶ壊れましたね(笑)、やっぱり。
当時楽器を始めるとベンチャーズかGSかビートルズか、ですよね?
うん、僕はビートルズにはあんまり興味がなくて。聴くのは好きだったけれど、自分でやりたいものではなかった。
じゃあ、あの当時流行っていたものをある程度は、っていう感じで?
うん、ある程度は...。加山雄三もやったし。
その当時って、発表の場がダンス・パーティーというのが多かったと聞いているのですが。
そうですねー、ダンス・パーティーやったりしましたね。
じゃあ、そのためのレパートリーに?
でしょうね、多分、そういう曲をやってるのは。あとはオリジナルで。オリジナルをやるのはコンテストとか。
当時めざしていたバンドや、こんな風にやりたいとかはあったんですか?
うん、それはその時々で。
大きい目標は特になくて、その時々で変わるんですか?
大きい目標はあるにはありましたね。ただ、どのバンドとかじゃなくて、向こうへ行っちゃいたいってのがありましたね。
それは、やはりイギリスですか?
その頃はどっちでも良かったですね。よく分かんなかったから、違いが。もし洋楽やるんならば現地に行かなきゃっていう。
ちょうど60年代後半だと、イギリス系が元気良かったですよね、フーとか。
でも、アメリカのものもやっぱり根深かったし。スーパー・セッションみたいなのが出てきたり、フィルモア・イーストとかがあったり。
オールマンとかも聴いてらしたんですか?
オールマンはもうちょっと後ですね。音楽情報、疎い人だったんで...
積極的に自分から行くタイプではない?
うーん、そんなにはね。大学行ってから、ロック喫茶とか行きだしてから色々聴きだしたようなもんで。
ブルースの影響とかは?
直接は、その時代はなかったですね。徐々に、ですね。年とったらある日突然ブルース弾ける人になってたっていう感じ(笑)。若い頃は直接興味がなくて。まぁ、民族音楽だから別に、みたいな(笑)。
まぁ一時期ジャズ聴かれてれば、ブルース・フィーリングというか...
まぁ、どっかでね。
60年代の終わりにウッドストックがあって、あの当時の方々は、皆さんウッドストックっていうのが精神的にあったそうですが、佐久間さんも?
うん、やっぱり大きかったですね。それ一色でしたね。
それはロックという音楽であれだけの人が集まったということもあってですか?
人が集まったっていうか、ああいう音楽が存在していたこと。スゴいなと思ったし、ああいうことができる場所がある国っていうのが...。日本であんなのはやらしてもらえない感じがあったから。
憧れましたか?
うん、そうですねー。
当時は長髪だったんですか?(笑)
長髪でしたね。高校の間は、さすがに長髪っていってもそんなに大しては伸ばせなかったけど。
佐久間さんのイメージとして、「スタイリッシュ」ってのがあるんですが、その当時はベルボトムとかのヒッピー・スタイルで?
いや、もうきたない、ボロボロですよ。ベルボトムでもお洒落しだしたのっていえば、ELPみたいな時代よりも後ですよね。

 

大学時代に自宅でシンセを利用して多重録音を始めたそうですが。
ああ、あれは卒論のやつで。
シンセサイザーはすでに購入してあったのですか?
うん、その時やってた「ミスタッチ」ってバンドで、何台かバンドの機材としてあったんで。
当時のシンセというと?
コルグの...800DVのいっこ前のやつ。あと、ローランドのペタペタペタってしたスイッチがあるやつ。
中学・高校の時のギターは?
「ボイス」のギター。最終的に捨てちゃったけど、持っとけば良かった。いまだにプレイヤーとか時々見るとたま〜に何年かに1回くらい(中古で)出ていることがあって。
 ないかなーと思って探すんですけど、あったら買おうと思って。前に見つけて電話したらもうなくて。今となってはどこが作ってたのか分からないんだけど、「ボイス」は。
それは全くのオリジナルの?
うん。要するにジャズ・マスター・タイプなのかな... 大学の最初くらいまでそれで。
それが一番最初に買われたギターですか?
うん。
それをずっと中学から高校と?
うん。
高かったんですか?
2万9千8百円。当時それは相当。
その当時、なぜそれを買おうと思われたんですか?誰かに勧められたとか?
ううん、じゃなくて。エレキを売っているところ自体が少なかったんだけど。デパートだったんですけど、それがあって、カッコイイ!と思った(笑)。
 サンバーストで、べっ甲柄ピック・ガードというオッサンくさいやつだったの(笑)。でも、なぜか子供心にカッコイイと思った(笑)。
当時から楽器は好きだったんですか?
そうですね。
じゃあ、アンプとかは?
アンプはね、家にあったハイファイ・オーディオ。ステレオじゃないやつ。モノラルの。
ベースは?
ベースはずっと後ですね。その茂木由多加と「ミスタッチ」っていうバンド始める時に、ベースやろうって思って。それはもう単純にEL&Pっていうか、茂木由多加がそういうのやってたから、キーボード・トリオをやりたくて。
 茂木由多加は「万華鏡」ってバンド解散してから1年以上かな?全く音沙汰なくて、お互いに音信不通っていうか。野音に僕がロック・コンサートを観に行った時に、茂木がキーボード・トリオで 出てて。それがあまりにショボいバンドで。キーボードは良かったんだけど。それでまた一緒にやりたくて。で、それには僕がベースやんないと無理だと思って。
それで、どこのベースを?
一番最初の?それはね...エルクだったような気がするなぁ。不思議なベースでしたね。いや、格好も何も。音も含めて不思議だったから買っちゃった。色んな形のがあるんだけど、そのベースはかなり特殊な形でしたよ。で、その次が「ミスタッチ」が半分プロみたくなる段階でフェンダーの、今も持ってる、例の四人囃子で使ってる白いやつ(ジャズベース)ですね。

 

「ミスタッチ」はレコーディングまで?
いや、しなかった。
レコーディングのお話とかは来てたんですか?
具体的にはついてなかったですね、「ミスタッチ」の場合は。
「ミスタッチ」ではプロ・デビューしようと思っていらしたんですか?
思ってましたよ。
その当時の活動って、どういう感じだったんですか?
ライブ・ハウス定期的に出たり。あとは学園祭であるとか。「シュガー・ベイブ」なんかと一緒でしたね、デビューとか。
対バンとかで?
うん。で、すごい良いバンドだなーって思って。

あとはあの時代、ジャンルが結構デタラメだったんで、ウエスト・ロード・ブルース・バンドとか。山岸(潤史)を初めて観たりしたのもあの頃ですね。で、四人囃子と一緒っていう機会が結構多くて。

やっぱり地域的に近かったというのがあって?
でしょうね。それと四人囃子から話もらって仕事回してもらったみたいなのもあるかもしれないですね、茂木が。
その当時、マネージメント的な事は茂木さんがされてたんですか?
「ミスタッチ」はどうだったっけな...あ、いましたね、藤本っていうのが。
その方はメンバーとして?
いや、マネージャーとして。
じゃあかなり本格的ですね。
そうですね。あの頃はプロ・バンドとアマチュアって、あまり境目がはっきりしてなかったんで、レコードでてなくてもプロ、みたいな。
お金をもらって演奏すればプロ?
そうですね。
その意味で、実際に「プロ活動」をされ始めたのはいつ頃ですか?
実際にお金もらったのは、たぶん中学生の時。
お友達とのバンドで?
そのバンドじゃないけど、手伝いでギター弾きに行ったりして。その時代のプロとかと。大人の中に入って、一人で子供でギター弾いて3千円もらったみたいな(笑)。
何かお知り合いでもいらしたんですか?
たぶん、僕らがどこかでやったりしたのを観た人が声をかけてくれて。なんか、高校生の頃は杉並の天才少年と言われてて(笑)。

 

ミスタッチについてですが、一番最初に脱退したのは茂木さんですか?
いや、ミスタッチはもうやめちゃって...
何か具体的に理由があったんですか?
いや、大して深い理由はなかったような気がしますが。
ミスタッチは、音楽的にはどんな感じだったのですか?
EL&Pみたいなことしてたけど、あれのもうちょっとスピードものみたいなのを。
そういった曲はどなたが作られたのですか?
僕と茂木くんで。
やはりクラシック的な要素を意図的に入れようとしていたんですか?
うん。
歌詞を書かれたのは?
歌詞も二人で。
それは英語だったんですか?
いや、日本語でした。
じゃあ、佐久間さんはずっと日本語で唄うバンドばかりだったんですね?
そうですね。
当時、日本語で唄うことに抵抗のある人達もいたようですが。
いや、僕の場合はジャックス観た後に、それはもうなかったから。
では、ジャックスを観るまでは英語詞を書いたりとか?
いや、日本語でしたね。子供だからまだ英語書けないんで。向こう(洋楽)のコピーはねぇ、英語だけど。
じゃあ、歌詞に対してこだわりは...。

うん、別に何語でも。

 

話は変わるのですが、20数年かあとに早川義夫さんと仕事をされたわけですが(編注:1997〜98年)、一緒にお仕事された時には、ジャックスとか昔のこととか話されたんですか?
ええ、しましたよ、さんざん。高校生の頃、1回だけ早川さんに会ってもらったことがあって、新宿の風月堂で。どうしても話してみたくて。で、早川義夫はしょっちゅう新宿の風月堂に入り浸ってた人だったから。彼は覚えてなかったですけどね、もちろん。
それは話を聞きたいということで?
うん、どうしても話したくて。それぐらいファンで。熱烈なファンでしたね。
後年のプロデュースのお話はどちらから来たんですか?
いや、それはレコード会社からなんだけど、ソニーで早川義夫が再デビューするっていうことになった時に、ソニーから出るっていうのを知らなくて。再デビューするっていう噂は知ってたんだけど。
 で、その時たまたま担当者が「すかんち」のディレクターだったのね。で、そのディレクターだった大野さんていう方が「やぁ佐久間さん、実は早川義夫さんが(ソニーから)出ることになって」って。で、「えーっ、絶対やらして」って。そしたらホントに、2枚目だったんだけど、やる ことになって。まず打ち合わせ最初にやって、もーのスゴイ緊張しました(笑)。生まれて初めてですよ、この業界に僕が入ってあんなに緊張した打ち合わせは。
風月堂の時とどちらが緊張しました?
いやー、風月堂の時より緊張しましたね。ほとんど舞い上がってましたね、もう。その頃は単にファンだから。今となっては仕事でやんなきゃいけないわけだし。

それでね、これは余談ですけど、実際、最初にレコーディングした時に「音響ハウス」ってとこでやったんですけど、早川さんピアノ弾いて、僕ベース弾いて、「そうる透」ドラムで。とりあえず1曲一緒にやってみましょうって。まぁ全く即興演奏なんだけど、進行だけ決めてっていうのをやって。何回か音決めがてらやって、多分、4〜5回かな?そんなにやってないかも知れないけど、最終的なO.K.テイクっていうの録れた時に、弾きながら涙が出てきちゃって。生まれて初めて。

いかに感動したとかじゃなくて、歌聴きながら演奏してて、自分がなんでこんなに自由に演奏できるか分からなかった。で、なんだか分からないけど弾いてて、涙が出てきて。
で、終わって、今のをじゃあ、とりあえず聴いてみましょうって、コントロール・ルーム入った時に、スタッフ含めてアシスタントとかも全員泣いてた。

それはどの曲ですか?
それはね、「身体と歌だけの関係」。2バージョン入ってますけど、それのバラードの方のバージョン。すごいですよ、あの人は。本当にね。早川義夫とエレ・カシの宮本浩次ってとんでもないですね。

要するに言葉じゃなくて、音としての声で感動できるっていう。涙が出たりとか、そういう反応ができちゃう。言葉なんか、何でもいいんですよね、あの人たち。あれはすごいなぁって思いますね。

 

コンサートで思わず泣いてしまった、というのはありますか?
いやぁ、寝てしまったというのしかないですね(笑)。思わず寝てしまったという(笑)。寝なかったという経験はほぼない(笑)。最初っから最後まで寝ないで観てたっていうのは、いまだに初めて日本に来た時の「エアロ・スミス」だけ。それ以外、すべて寝てます(笑)。
昔の雑誌に最近聴いている音楽は「KISS」とか「QUEEN」とか「エアロスミス」ってあって、本当に佐久間さん聴いてたのかな?って疑ってたんですけど(笑)。
うん、ほんとに聴いてた。ほんとに好きだったし、ほんとに評価してた。いまだに評価しますよ、その3つは。
それは聴いた当時を指してですか?
いや、今聴いても。
現在の活動としても?
例えば、QUEENはもう現在ないけども、エアロスミスはいまだにイイですね。KISSも新作とかいいですね。
来日したら観に行かれます?
いや。時間があればもちろんね。わざわざ時間を無理矢理作ってという程は...
KISSなどは、デビューした時にキワモノ的な感じだったじゃないですか。あれは全然関係なく?
全然関係無く。 KISS とか ZZ-TOP とかってある種同じ音楽のレベルで大好きですけどね。でも、それを日常的に自分の部屋でかけたいかっていうと、全然かけたくも何ともないですけども(笑)。
友達の部屋でかかってても別に気にしない。
気にしないし、こういうとこ(編注:インタビューで利用したお店)でかかってても気にしない。例えば、たまにかかっているのを聴くと「イイなー」って、しみじみと思える。
良いと思われるのはポップさの部分ですか?あるいはノリの部分ですか...?
ポップさでしょうね。最近のエアロスミスって、ポップと言うより、何と言うか、ツェッペリンと同じ様なレベルで。
エアロ・スミスというひとつのカテゴライズされた音楽?
そうそう。限りなく。

 

昔に戻しますけど、中学〜高校のころに外タレのコンサートに行ったことはあったんですか?
いや、行けないですねー、その時代にね。
チケット代が高いということで?
いや、(回数が)あんまりなかった。ツェッペリンの日本公演があった時に、2回あったんだけど2回とも僕は風邪でうなされてて行けなかったという、とっても悔しい思いを。それだけは心残りだねー、ツェッペリンをリアル・タイムで観なかったっていうのは。
ちょうど高校の時ですか?
高校の時と大学の時。
では初めて行かれた外タレのコンサートというのは?
外タレ?(しばし沈黙)...それ、わかんない、意外に。大学行ってからだったと思うんですけどね。
結構遅いですね。
うん。
自主的にですか?それとも友達が行こうよって?
いや、自主的にでしょうね。何だろ....PINK FLOYD かな、ひょっとしたら。

箱根の?

いや、箱根の後。次の時。代々木だったか千駄ヶ谷だったかでやったやつ。

ああ、体育館(72年3月)。じゃあ『狂気』の出る直前ですよね。
あ、そうそうそう...

 

大学の時に寝具のCMに佐久間さんの曲が使われたというお話ですが。
ああ、多重録音もののシンセのやつは、そうですね。
卒論でシンセを使われたというお話でしたが。
うん、それの頃。

では、これが曲としてお金をもらった一番最初ですか?

曲としてっていうか、CMとしてはそうですね。
じゃあ、人に曲を提供してお金をもらったことがあるとか?
あー、よく分かんない。ありそうな気もする。

いわゆる電子音楽と出会うのはいつ頃のことですか?

高校生...かな?中学かもしれない。
いわゆる電子音楽って何が始めでした?
なんでしょう?この本(編注:インタビュアーが持参した『電子音楽イン・ジャパン』)を見ないと分からない(笑)。
中学くらいっていうとまだまだ...それこそシンセもあんまりないし。

いや、「オンドマルトノ」とか、そういうのを含めた電子音楽。ミュージック・コンクリート以前のものですね。そういうのに何かサムシング・ニューを感じたわけですね、子供心に(笑)。あとね、SFみたいなことが好きだったのね。子供の時からね。

本を読んだりとか?
いや、本はあまり読まないんだけど、TVだったり、お話であったり。
映画とかは?
映画は学校に行くのをさぼって、よく小学生の時に映画をTVで。僕が小学生の時に、(午後)3時から毎日映画をやってて、奥様向けの。で、それが観たくてよく学校休んでた。早引けはできないから、どうしても観たくて学校を休んでた。
新聞を見てこれは、とか?

いや、映画の題名見ても何にも分かんなかったから。それがなんか楽しくて。

当時好きだった映画は?
うんとね、一番ショックだったのは「巴里の空の下セーヌは流れる」と「鉄道員」かな。子供の頃一番ショックだったっていうのは。
「鉄道員」ってちっちゃい頃に観るとショック受けますね。
うん、ね。フランス映画好きだったですね。それ見てパリとかフランスっていうのに子供の時から憧れて。

外国に行かれたのって、一番最初は?

21(才)の時にパリに行ったのが最初。
ご自分で行こうって?
うん。たまたまファッション業界の人のツアーがあって、それに便乗して。花の都パリが最初だったから、いまだにパリが一番好きで。最初に行ったところってヤッパリ残りますね。いまだに、たまーにパリ行っても同じ感動っていうか同じに嬉しい。
空港降りた途端にワクワク、みたいな。
そうそう。ほんとワクワク。言語もほんとに違うし。なんかいいですよね、パリはね。

 

音楽だけでなくて、そういった「スタイリッシュ」なことには小さい頃から?

いや。
音楽以外の趣味というのは特になかったんですか?

そんなにはないですね。こういうもの(編注:お店で飼われている大型犬を指して)が好きだったくらいで。動く「けもの」が。家がずっと犬飼ってましたからね、ちっちゃい時から。中学生の頃に、将来音楽家になるって決めた時に、音楽家か工業デザイン家かどっちかになりたいって思ってたくらいで。

具体的に特定の工業デザインとかを考えられていたのですか?
例えば車のデザインだったり、機械のデザインだったり。

じゃあ、理数系とかは授業でも得意だったんですか?

うん、その当時はね。完全に理数系でしたね。実際に大学受ける段には、日和って、もうどーでもいーや、って(笑)。

そういえば学部はどちらだったんですか?

人間関係学科。人文学部人間関係学科ですね。高校生くらい頃の子供心に、浅はかな知恵で思ったんですが、音楽をやるには、芸大に行って音楽をやったら音楽はできないな、と。音楽をやるには人のことを知らなきゃできないぞ、と。そういうところで心理学とか教育学とか社会学とかを合わせた人間関係学科が一番ベストだろうな、と。浅はかな知恵が。
 でも、まぁ、後で結果っていうか、今現在の自分を思っても、あそこで芸大行くよりは例えばプロデューサーとかそういうことやるんだったら今の方がよかったかなって。

大学時代の勉強で「残っているもの」ってありますか?

ほとんどないですよね、実はね。でも、ちょっとかじったところでの社会学だったり、心理学だったり、犯罪心理学だったりとか、そういうことは多少は残ってますけどね。ただでも、フロイトであれユングであれ、その頃教わった時に自分が感じてたことと、今になって実はこうなんじゃないだろうかって思うことは、全然違う捉え方になってますよね。
 子供の時は変な先入観で観ちゃうから。しかも70年代の左翼思想で観ちゃうし。かなりフィルター通して観ていて、その中での解釈で、何バカなこと言ってるんだ、みたいなところが多分にね。
やはり初めはフロイトとかユングあたりにハマリましたか?
ハマルって言うか、道筋として通らないととりあえず。単位もらえないみたいなところが(笑)。
単位と同時に、あの当時、頭良くなるにはこの辺通らないといけないっていうか...
いけないみたいな、ねぇ...。今にして思えば全然「あさって」だったかなって。できることなら、30(才)過ぎてくらいからずっと思うんですけど、もう一回勉強できる時間があったらなーと思いますね。

それは、別に大学の勉強だけじゃなくて、算数のツルカメ算であってもそうだし、今だと習ったら全然違う見方ができるかなって。子供の頃って無駄に時間過ごしますよね。今だと違う観点から みれるから。

「これはこうだから白なんですよ、分かりましたか?」って言われて、「はーい、わかりました」っていうか、あるいは何か疑心暗鬼で「うーん、なんか先生ウソついてるんじゃないの?」っていうところで嫌いになっちゃうかのどっちかしかないのね。それが後になれば「これはこうだから白なんですよ」の「こうなんだから」の所を理解しようとするし、「こうなんだから」の所にちゃんと疑問を見つけようとできるんだけど。

 

民族楽器はいつ習得されたんですか?
結構、後ですよ。「シタール」は30(才)くらいになってからじゃないですかね。

「バラライカ」は四人囃子の頃ですかね。

でもまぁ、弦楽器ってみんなほとんど同じですから。(民族楽器は)伝統的な奏法やチューニングでは弾いてません、最初から。自分で勝手に解釈してます(笑)。シタールは一応ある程度最初に勉強したから弾けないですね。その弾き方でやらなきゃいけないみたいなのがあるから。他の楽器は勝手に独学だから。

きっかけってなんでしょう?好奇心ですか?
好奇心ですね。音色的に自分がやる音楽の中で必要だったりすることがあるんで。

例えば四人囃子の時に、全然エフェクターかけてないですよね。他の時には音色をいじるという傾向だったのに、四人囃子ではストレートに楽器の音でというのは何故ですか?

四人囃子の時は、自分はベースだったから、ベースっていうのはそんなにエフェクトすべきではないですからね。よほどの時以外は。
ベースはやはりストレートに行くべきだと?

うん、低音揺らしちゃうとグチャグチャになっちゃうんで、単にそれも音像処理の問題でして。低音は下手にはいじれないですね。

じゃあベースいじる人いますけど、あれは良くない?
あんまり良くないっていうか、最終的な上がりが見えてていじるのはいいんですけど。そのミックスの段階でいじるのはもちろんね。先にやっちゃうのは、あまりにその全体像に影響を及ぼし過ぎるんで、あまりやらない方がいいですね。

四人囃子の時にももちろん色んなことを試してて、その結果えた結論ですね。やんない方がいいっていう(笑)。

ベースは「聴かせる」よりも、むしろきっちりとリズム・キープした方が。

そうですね、リズム・キープしたり、旋律的な部分を。四人囃子は最終的な音源としては残ってないだけで、作っている段階では相当ひどいことやってますね。

岡井さんが音として持っているかも知れない?
持ってはいないと思うけど、かなり変なことやってますよ。

そういうのをライブで再現したりとか?例えばライブではレコードと違った音で再現したりとか。

ああ、それもありますね。ライブはライブで別のことやってたから、四人囃子は。
「包ライブ」(編注:1978年7月29日日比谷野音)でのベース・ソロはかなりシンセっぽいですね。
うん、あれはそうですね。あれはベースしかないから。どうやってもイイわけですね。
アンサンブルの時はやはりベースはベースとして...

うん、成立しないと。低周波が揺れてるのはかなり気持ち悪い状態を作るから。四人囃子の時でいうと、ベースはチューニングとかを変えてますけどね。ピッチを、今でいう「バジー・フェイトン・チューニング」で。

それは、フレーズによってそのポジションでチューニングが合うようにし直して?
うん。し直したりとか、曲調によって変えたりとか。
そうすると、頭から終わりまで一曲通して弾くっていうんじゃなくて?

いや、一曲通してもうそのチューニングで。「この曲はこう」っていう解釈で。

それを微妙にピッチで?
微妙にピッチでズラしちゃう。合わせるというよりもズラしちゃう。
音を録る時っていうのはつないだりなんかせずに一気に通しちゃうんですか?
大体そうですね、ベースはね。四人囃子の時は。

 

中学の時から作曲を始められていましたが、他のメンバーに知らせるのは、もうほとんど頭の中で出来てしまってから、というやりかたですか?

そうですね。
当時、譜面とかは書いて?

最初はあえて書かないようにしてましたね。譜面にしちゃうと再現音楽みたくなっちゃうから。

じゃあ、そういう意識を持って作曲してたんですか?
うん。
それは中学の時?
いや、その頃は書いてましたけど、そうじゃなくて、四人囃子の時は。「NEO-N」の時は全部書きました。口頭で伝えるような時間もなかったし、面倒臭いしっていうので。
SE の部分もイメージして?
そうですね。
一応、簡単なデモ・テープみたいなものは作られたんですか?
ううん。
その場でベース・ラインや他の楽器を弾いてみて?
うん。例えば、1回ピアノで「こういう曲」っていうと皆できちゃう人達だったから。曲のイメージさえ伝えればみんなできちゃう。
じゃあ、最初思っていた曲より長くなったり、短くなったりというのは?
ああ、それはその場でもちろんあるけど。「NEO-N」の時は言葉での説明がもはや難しい気がして。逆に譜面で渡しちゃった方が早いかなって。
ほぼ全部のパートの譜面を書かれたんですか?
いや、トータルの。マスター・スコアとか。あとは各人の責任で好きにやりなさいって。「NEO-N」を作ったときは単に誰かがきっかけ作らないと始まらない状況だったから、僕がきっかけをわざと意図的に作っただけでね。
「NEO-N」を作るという話の時にはもう坂下さんは離れられて?
うん、もう辞めてましたね。
その時に、佐久間さんが「もう一度“プログレ”をやろう」とおっしゃったそうなのですが、「プログレ」をどのように位置付けられていたんですか?どうしてもプログレっていうと様式美みたいな...。
うーん、前進しなければいけないって思ったんですね、単純に、ロックという音楽は。で、前進出来ないんだったらテクノっていう音楽の勝ちだって。
やはりテクノは「大きかった」ですか?
テクノって言うか、ニュー・ウエイブ。で、新しい音楽形態をどう提示できるかっていうのが大事だったわけで、僕にとっては。
「包」出した後には、興味はもう四人囃子よりは...
うん、「ポップス四人囃子」には興味なかったですね。

四人囃子やるからには何か新しいテイストを提示出来るものをと思ってたし、それが出来る可能性が残されているのはロック・バンドでは四人囃子しかなかったと思ったから続けただけで。

「NEO-N」で比重がかなりキーボード寄りになったっていうのはその辺もあるんですか?
変な言い方をしちゃえば、幸い坂下がいなくなったというとこで、逆にキーボードに比重が置かれたということがありましたね。
要するにもう1回「ありえない種類のロック」っていう形態をやりたかったっていうのがありますね。
 
「フランク・ザッパはプログレだ」とよく言われますけど、ああいうのはどう思われますか?
僕はフランク・ザッパには全然興味がないんで、聴いてもよく分かんなくて。

だからあんまり...。なんか、フランク・ザッパってロックじゃなくてニュー・ジャズに近いものっていう感じがしますね、僕にとっては。ニュー・ジャズてあったり、ニュー・アートであったり、ボディ・ペインティングしてキャンバスの上をゴロゴロしちゃう感じに近いものですね、僕にとっては。

 だから、アンディ・ウォーホールとは全く違うものですよね。僕はポップという意味でいえばアンディ・ウォーホール派なんで。

ザッパはああいう事やりながら全部「書き譜」だったらしいですね。
うん、ミュージシャンのオーディションもそうだったらしいですね。

「そうる透」が若い頃にザッパのオーディションを受けようとしたことがあったらしくて。その時にオーディション用の譜面もらって。スッサマジイものだったらしいね。それで、あの人は何の理由か分かんないんだけど、たまたま受けなかったんだけど、受ければ良かったのにねー。簡単に叩けちゃったのに。

 

結局、ミスタッチがなくなって茂木さんは四人囃子に入られたのですが、その間佐久間さんはどうされてたんですか?バンドがないわけですし...
何やってたっけな...ミスタッチやめたのはたぶん、大学終わりの頃だったんで、特に何もやってなかったんじゃないかな。
誰かとセッションやってたかも知れないけど。茂木が四人囃子入って、僕が呼ばれるのってスグでしたからね、 たしか。数カ月くらい。
ミスタッチって、プロ・デビューが近かったバンドですよね、そういうバンドがなくなって喪失感というのは?
ううん、別に。だって、僕がボーカルでしたからね(笑)。それがプロ・デビューしたところでねぇ(笑)。
茂木さんからお話が来たのは中村さんがやめてスグくらいに...?
うん、やめるって決まってすぐ。茂木から来たのか、森園から言ってきたのか覚えてないですけどね。
一番最初に四人囃子に入った時のことって何か覚えてらっしゃいますか?
荻窪ロフトで初めてライブをやった時のことで...
それが一番最初ですか?スタジオ入って音合わせしたりとかは?
あ、スタジオでリハやりましたよ、それ用の。で、すごい嬉しかったですね、僕は。大ニとできるのも、森園とできるのもの嬉しかったし、坂下ともそうだし。
それまで自分がやってたことよりか確実にワン・ランク上のことというか、演奏も含めてそういったことがすごい嬉しかったですね、大変だったけど。
大変だったというのは?
演奏自体がね、テクニカルに大変なことを要求されてたし。

で、その時のロフトのライブ用にやったカバー曲が、僕としてはジャンル的に苦手なものばっかりで。要するにフュージョンに近いものだったんで。僕としてはジャンル的にそんなに嬉しくないものだったから。

その「フュージョンぽいこと」っていうのはピック弾きのベーシストにとってはすごい不利なんですよ、演奏上。指でやればそうでもないんだけど、意地でも指でやんないぞってのが、すでに僕にはあったんで。

それは何かに対して?
うん、何かあったんでしょうね。
このピックへのこだわりに対して、後日佐久間から 来たメールの一部
 ピック弾きの件ですが、確かにピックにこだわっています。今だから明かす何故か:
 その1)指だとどういう訳か8分音符すらまともに弾けない。(そのくせ変な難しげなフレーズはできるのですけど)
 その2)右手の指が痛くなる!指紋がなくなって、日常生活(ちょっとした指を使う動作)が不自由になる。ビニール袋開けるとか、電線をよるとか。
 その3)元来左利きなもので右手は不自由。(ピアノのハノンを練習しても右手はリズム無茶苦茶)
 その4)男の意地(?)
 その5)ELPからベースに入った。
 その6)昔練習で無理やり「スタンリー・クラーク」をピックでやってみたらとっても面白かった。
 その7)ライブでピックを客席に投げられる。(指は投げるわけにはいかない!)
 その8)決定打!:考えてみたら私はもともとギター弾きだった・・・。
 その9)おまけ:ピックで指より太い音を出せるからレコーディングの場で受ける。
 ざっと考えるとこんなとこでしょうか。この文は先日のインタビューの続編としてご使用いただいても結構ですよ。(^_^)

 ちなみにピックはヘビー、カステラは文明堂です。

その頃って、ベースを始められて何年くらいだったんですか?
せいぜい1〜2年くらいですね。
その荻窪でのライブの後、ワールド・ロック・フェスがあったわけですが、それまでの間は本来の四人囃子の曲のリハーサルをしていたのですか?
あったんでしょうね。僕はずっともう「GOLDEN PICNICS」が終わってしばらくたつまで、単に「トラ」の人(編注:バンドマン用語、いわゆるピンチ・ヒッターの意味)だと自分で思ってたんで、メンバーだとは思ってなかったですね。
「GOLDEN PICNICS」のレコーディングに入る前も?
前も後も。で、ずっとたってから「メンバーだよ」って大ニとかに言われて。「えー、そうなんだ」って。
僕はずっと手伝いとかトラのつもりだったの。
では「GOLDEN PICNICS」の時は、例えば曲に貢献するというか...。
いや、そういうスタンスで僕はやってたけども、別にそれはトラであれ何であれその日呼ばれただけであれ、貢献するのは当然で。自分ができることは全部やるのは当然で。
というか曲を書いて持って行くとか。
あ、曲は、だから一曲持ってった。
囃子のプロダクションからもそういう話はなかったんですか?
うん、なかったと思いますよ。僕は所属しなかったし、お給料もらった記憶はないし。
じゃあその都度ってことですか?
うん、多分ね。
その頃、まだ岡井さんのお兄さんがマネージャーをやってらしたんですよね?
うん、そうですね。すごい面白い話があって、ワールド・ロック・フェスで後楽園球場に行った時に、楽屋の受付で「僕は四人囃子の佐久間です」って言ったら、楽屋受付用のメンバーリストに佐久間って名前がまだ入ってなくて。中村真一だったの。

で、「佐久間さんってありませんよ」って受付のバイトのおにいさんに言われて。それで入れてくんなかったから、「ああ、じゃあ分かりました、じゃあいいです」って。で、「わぁ、やった、しめた」と思って。こりゃ出ないですむぞって。

笑...どうして「しめた」なんですー?出たいと思わなかった...?
いや、穴開けられるし、楽しいじゃない、そういうほうが(笑)。

で、理由が別に自分の責任じゃないし。しかも帰れるでしょ?で、「ラッキー♪」とか思って出てこうとして、ちょうどドア開けて出ようとしたところでマネージャーがたまたま現れて、「佐久間、怒るなー!」とか言って。全然怒ってないの、僕は、喜んでて。

「わぁラッキー、おなかも空いたしー。6時頃で御飯も食べてないし、出ようー」って(笑)。あれは惜しいことをしましたね、あの時は。しかも受付のおにいさんに「僕は本当にこのメンバーなんですけど、ほんとーに、入らなくていいんですね?」っていうのを念を押したの(笑)。で、「じゃあサヨナラ」って(笑)。もう丁寧に、ニコヤカに(笑)。「あー、ラッキー♪ (^o^)/ 」って。(笑)

(笑)それで帰っちゃったら受付のおにいさん、後で大変でしたねぇ。
大変だっただろうねぇ。
その時のパンフレットに佐久間さんの写真が出てなかったんですよね。
出てないですね。
茂木さん入れて四人だったんですよね。
あ、中村真一入ってないんだ。
キーボード2人でベースがいない。ワールド・ロックのパンフレットを開くと、たぶん「俳優座」でのライブだと思うんだけど、その写真の四隅に丸で囲ったメンバーの顔があるんですよ。
最近になってあの時の演奏を聴くと、あの時の演奏すごいのねー。
あれはすごいですよ!!
すごいねー。あの時は全然わけ分からないでシャバダバだって思ってたけど。上手なもんだねー、みんな。驚いちゃうくらい。
当時の録音が残っていたんですか?
うん、うちのスタジオのエンジニアに、たまたまその時のをエア・チェックしてたやつがいて。ラジオでやったのね、その日の。なんかなかなかすさまじいものがあったね。
大文字で出さなきゃ、上手だったねって。
上手だったねー(笑)。
それで、ワールド・ロックの翌月に「空飛ぶ円盤〜」のシングルが発売されるのですが、これがプロデビューとして初の名前が載ったものですが?
「〜円盤〜」って僕、名前がクレジットされてるのかな?(編注:されています)本人としては単に「明日レコーディングだから来て」みたいな。
感慨としては?

別に。僕のノリとしてはただお仕事だったから。

 

インタビュー前半のおまけ
この中間時点ですでにロング・ラン・インタビューになりつつあるのを察して佐久間さん...

これ、後で大変ですね、まとめるの。
とりあえず録音テープが全部起こせたらお送りして、ご確認いただいた後に掲載するようにしますので...
でも、いいですよ、お任せで。全然ウソ書いてもいいと思うけどなー。今までの話はなかったことにして、今から捏造(ねつぞう)しようか、ストーリーをみんなで(笑)。生まれはオックスフォードで(笑)、5歳でパプア・ニューギニアに移って現地の音楽を聴いて育って(笑)、それでオーストラリアに移って(笑)。
それよりも、バイエルを1月(ひとつき)っていうのがスゴイ!
うん、あれはヘンだ。
驚異的ですよ。
なんかよく分かんないねー。
読めない子がつまづきながらやってたわけではなかった。
なんでスラスラ読めたのか。一日に何ページもできちゃう。
面白かったんですね、きっと。
ようするにパズル解くみたいなもんだったんだろうね。
というような初期のお話が録音テープのB面回った時に出るのぉ〜(ヒエ〜...編集たいへんだぁ〜)...
だからぁ。大学卒業と同時にバイエルを始めて(爆笑)。で、12年かかって一冊終わって(笑)。そーゆーお話ですよね。

 

中村真一さん時代の曲を演奏する際には、中村さんが弾いていたベース・ラインを引き継ぐ形で演奏されていたのですか?
基本的にはね。でも『GOLDEN PICNICS』のレコーディングの時には、もうほとんど自分のフレーズで。

“ちゃわんやき”にしても勝手に弾いてた。それ以前の“一触即発”をライブでやる時には、あれをコピーしてたけど、その他の曲なんかは中村真一がどうやってたかは全然知らなかったし。

あと“カーニバルがやって来るぞ”は四人囃子の前にやっていたミスタッチの曲だったから、ミスタッチの時のフレーズでやってたし。

ミスタッチの曲をやろうって話になったのは?
なんか、森園か大ニか分からないけど、気に入ってやってたみたい。僕が加入する前から。
森園さんが気に入っていて、と岡井さんが...
あ、そうなの。
「GOLDEN PICNICS」に収録されている“カーニバル”は、当時ミスタッチの時のやっていたのとほぼ同じアレンジなんですか?
だいたい近いですね。
じゃあそれをミスタッチ時代は3人のバンドで。
そうそう。ギターがなかった分が違うだけで。ベース・ラインとかは多分、ほとんど一緒。

とにかく「GOLDEN PICNICS」の“カーニバル”にしても、中村真一がやってた“なすのちゃわんやき”“ネッシー”にしても、ベースが入っている音源がなかったんで、バンドのリハーサルの中で自分で勝手にやってた。

“ネッシー”は、レコードではかなりジャズっぽくなっていると思うのですが、あのアイディアはどこから?
森園じゃない? あとは“中村哲”が助っ人で入ったというのもあるかもしれない。

“レディ・ヴァイオレッタ”なんかは、レコーディングの前に出ていたね。あれは烏山(編注:京王線の千歳烏山)の三鷹楽器のリハーサルの時に、全然遊びでイントロを僕が勝手に弾いたのに森園が合わせて始まっちゃった。だからレコーディングするなんて僕は思ってなくて...

“円盤”のすぐ後に茂木さんがお辞めになるわけですが、自分を連れて来た人がいなくなるから、自分も...というのはなかったですか?
ううん。連れて来たっていうよりは、中村真一がいなくなったから手伝いで入ったっていうだけで。

茂木由多加はその後“バイバイ・セッション・バンド”に入って。ちょうど“坂本龍一”が(バイバイ・セッション・バンドから)抜けた後に茂木が入って、ギターが“土屋昌巳”で、ベースが“吉田建”で。
茂木とはその後も親交があったんで、その時代に僕もあの辺の人達と知り合いになって。そのあとお仕事で土屋昌巳とかよく一緒にやったんですけどね。

一緒に演奏するような交流もあったんですか?
うん、その後にね。茂木がバイバイ・セッション入った後に一時期、坂本と茂木と僕と三人でグループ組んだこともあって。僕がギターで、ツイン・キーボードでベースなしで。
そこでは、即興演奏というか現代音楽みたいなのを。“タンジェリン・ドリーム”をもっと現代音楽にしたような、タンジェリン・ドリームと“ロバート・フリップ”があの当時やってたことを合わせたようなことをね。
同時期に色々な音楽的傾向が入ってきているようなのですが、それは同じ様な比重で?
うん、交錯してましたね。
特にジャンルにこだわりはなかった?
うん、ない。
演奏していての気持ち良さというのも全く同じですか?
うん。たぶん坂本とやっていた時には、僕に四人囃子のメンバーという意識がなかったんですね。僕はもっとロバート・フリップみたいなことをやりたかった時期だったのかな。

 

「GOLDEN PICNICS」の時は、テンポラリーなメンバーという意識があったとのことですが、レコーディングには全部立ち会われたのですか?
うん、全部、最後まで。
それは、自分が出した音には責任を持つということで?
いや、というか興味で。
正式なアルバム・レコーディングというものが初めてだったこともあって?
うん、初めてだったから、ちゃんとはね。人のお手伝いのレコーディングは一杯あったけど。

「GOLDEN PICNICS」のレコーディングで、イニシアティブをとっていたのはどなたなんですか?

森園。
その森園さんが四人囃子を辞めて、新メンバーを探すという時期に入ることになるわけですが。最初は“お客さん”のつもりでバンドに関わったのが、そこからメンバーとしての意識を持ってバンドに関わりを持つようになったのでしょうか?
うん。「GOLDEN PICNICS」が終わってから、僕はメンバーだったというのを初めて聞かされて、「ああ、そうなんだ、じゃあメンバーにしてくれるんだったらちゃんとやるかな」って思って。曲を書いたりという意味も含めてね。

それが、はじめて四人囃子をちゃんとやってもいいかなと思ったところで森園が辞めて。じゃあ次どうしようかっていうところで、大ニも坂下もたぶんあの時点ではもうやめようとしてたんじゃないかな?

僕は、それ以前にキーボード・トリオをやってたから、だったらキーボード・トリオでやろうよって簡単に提案したらば、それじゃ無理だって。それで、じゃあギター探すかって。

僕的にはキーボード・トリオで できる勝算があったんだけど、坂下があのように不精者であるからゆえに(笑)。演奏力は全然問題ないのに不精者であるがゆえにできないというのがわかって。

その頃、小林克己(プリ)さんが“トラ”で参加されていたわけですが、小林さんをメンバーにという意見はなかったんですね?
それはもうハナから。
他のバンド(ハルヲフォン)があったから?
いや、人のタイプとして。
小林さんにトラをお願いした理由は?
あれはもう、身近で何でもできてうまいのはプリが、って話で。だって、あの当時ひどいのは、小林克己がギターで、ヴォーカルが僕だったんだから、しばらく...
何といういい加減な四人囃子。リハーサルじゃなくて本番のライブで。“空飛ぶ円盤”から“一触即発”から、僕が歌ってたんだよぉ。
そのあたりの音源、ほとんどないんですよね...
そりゃあもう、ない方がいいでしょう。ちょっとあったらマズいです(笑)。

 

新メンバーとして佐藤満さんを選ばれる際に、サウンド造りの面で何かプロダクション的な意向があったんですか?
僕としては、もっと普通のロックをやりたかった。
ちょうどオーソドックスな方へ帰られていたんですか?
KISS であったり、QUEEN であったりが好きだったから。
そのニーズに合うのが満さんだった、と。
うん。
その頃にはプログレ・バンドの四人囃子っていうのは。
そんなアカデミックなことはやりたくなかった。もっと「ドカーン、バーン、ワー」みたいな(笑)。だから、 “N.Y.C.R.R.M.”みたいな曲を作っちゃうわけ。それまでの四人囃子の鬱屈したものの反動で。
その頃には現代音楽みたいなのは、もう...
うん、やりたくないし。
ある程度コマーシャルなことも配慮されました?
うん、かなりね。バンドの職業として整理させなきゃいけないというのもあるし。

 

別件でお聞きしたいことがありまして...。色々な本に記述されているのですが、「GOLDEN PICNICS」録音時に、音楽に対する“時間軸”が変わったと。そこのところが、言葉というか、文字だとよく分からないのですが。
演奏する上で自分が時間に対して、リズムに対して自由に感じられるようになったということ。
演奏に関しても変わったんですか?
明らかに変わりましたね。時間をちゃんと計測できるというか、感じられるようになって。例えば、それまでに僕が四人囃子でやっていた時に千分の50秒の違いを仮に理解していたとすれば、ある日を境に千分の1秒を理解できるようになったみたいな。
それは今も?
うん。以前レコーディングをしている時に、暇だったんでストップ・ウォッチで遊んでたんだけど、千分の1秒を僕は叩けた。1ミリ・セック。甘くてもだいたいコンスタントに2、3セックは出せる。だいたい千分の1秒か2千分の1秒は人間が感知 できるマックス・タイムみたいね。

ゴルフの青木さんがスゥイングして、ボールが当たった瞬間にスライス、フックっていうコントロール出来るのが2千分の1秒くらいなんだってね。で、王選手がボールが止まって見えるっていうのが千分の1秒か千5百分の1秒くらいって話で。それくらいを人間は感知できるみたい。

わざとアバウトなセッションをやる時は別だけど、僕らが意図的にシビアにちゃんとやろうとすると、例えば“そうる透”みたいな人とやっている時に、5ミリセック、千分の5秒ずれた時にお互いにニヤッと顔を見合わす感じで。千分の8〜10ずれた時は、「ゴメン、テープ止めて。もう1回やらせて」って感じで。

これが一人で真剣なテクノやってる時に...MIDIは使わないテクノね、MIDIは遅いから...それをやってる時に計測したんだけど、2千分の1秒くらいのズレは大体分かる感じ。

それは計算しているわけではなくて?
うん、結果で計算すると、だいたい2千分の1秒近くまでは分かってるかなって。

そのストップ・ウォッチ遊びをやっていた時に、自分の指の動きを見てて、1ミリセックを出した時の動きっていうのが、ピッていう速いカッティングをギターでする時の動きなのね。そうするとスタートとストップの間隔で考えると、だいたい弦の一個分の幅のスウィッチだったんだけど、それが。そうすると大体6弦全部カットするのに、インターバルも入れてほぼ5ミリ(セック)くらいで多分、自分はカットできてるのかなぁって。

そのように変わる前は、もっとアバウトで大まかな時間軸だった?
うん。全然よく分からない漠然としたものだったんだと思う、時間が。でも、プロのミュージシャンだからとか、特殊な訓練した人とかじゃなくても、例えばレコーディングで唄のコーラスを入れる場合に、唄を入れるタイミングを実際にどの位ずらしてるかというと、3ミリ(セック)とか、多くても6ミリ(セック)くらいでやってて、それでも一般的に聴いている人はモタって感じたり、ちょうどに感じたりするのね。人間って異常にシビアなのね、実は。普通の人でも。
それを具体的に詳細なイメージで認識できないのが普通?
まぁ、普通はね。ただ漠然と。だから、アマチュアの人が演奏している時に、「あ、ドラムとズレちまったー」と言うのが10〜15ミリとすれば、それが僕等は5ミリ、3ミリで「あ、ズレた」っていう違いがある。

でも、客観的にその場にいて聴いてたら、僕らの5ミリの中にもそれを感じるはずだから。あ、今ベースとドラムずれたなって。別にシビアに聴いてんじゃなくて、ぼーっと聴いてたとしても。異様にシビアなんだよね、実は人間って時間軸に対しては。

そういうものは訓練でできるものですか?
ていうかねぇ、訓練しなくてもそういうものなんじゃないかな、人間は実は。ボールが止まって見えるようになるかどうかは訓練なんだけど、でも誰でも、実はボールが止まって見えるようになるんじゃないかな?
もともと持っているのに、何か外的作用とか知識に邪魔されて出てこない?
というか...たまたまそれに気付かないとか。多分、草野球であってもボールを投げてホームランを打てる確率、そのためのヒット・ポイントであったり、相対速度であったり、相当シビアなんじゃない?実は。分かんないけど。
時間軸が変わる前の自分の演奏を聴いてみて、明らかに違うんですか?
演奏は出来ているんだけど、出来てるんだか出来てないんだかその場では自分で分かってないわけ。時間軸が理解できると、それがリアル・タイムに分かる。
後で聴き直すと?
聴いても同じ。演奏した時に思った通り。それまでは、弾いてる時と後で聴いたのに落差があるわけ。良いと思ったのに駄目だったとか、駄目だと思ったのに意外に良かったとか。だから、“ワールド・ロック”の時の演奏を聴いてみて良いと思ったのは、その時に分かってなかったから。
そういうのは自分自身のものだけなんですか?例えば、人のを聴くとどうなんですか?
人のを聴いてももちろん。分かったからどうだってのはないんだけど。音楽っていうのは、人間のできる芸術の中で、たぶん、唯一、時間軸に対して働きかける行為だから、そういう意味ではシビアになれるのはいいかなぁと思うんだけどね。

自分をどう表現するかなんじゃなくて、自分が今の時間に対してどうアプローチしているか、というのが表現なんじゃないかな。

そうなりたいと思っても、いまだ漠然とこの辺りが正しいポイントだろうということで感じていて。結果、当たり外れが大きくなる...
そうだよね。でも、こんな話は、もしかすると思い過ごしかも知れないの。実際に計測するとどうか分からないけど、自分の中では“帳じり”が合う。

あの頃よくやってたリズムのトレーニングで、あるテンポで弾くとすると、その合間をどんどん開けていくのね、小節間を。あるフレーズのパターンがあるとすると、そのフレーズを繰り返す間隔をどんどん開けていくの。そうして1つのフレーズを弾いて、それから30分後に同じテンポで弾けるか、その続きとして。
1時間とかいう単位で、ずっと自分の中で同じリズムを感じてられるか。しかも合間にTVを観たり、人と会話したりして。なおかつ同じリズムでフレーズを弾けるか。それは相当練習した。

それはメトロノームとか鳴らさないで?
うん、頭の中で。で、それが実際合ってるかどうかは知らない。自分では合ってると思えるのね。
岡井さんと四人囃子のアンサンブルについて話をした際に、岡井さんいわく、佐久間はちゃんと頭でリズムと取って入ってくる、だけど俺は感覚で入ってるからズレちゃうってお話をされていて...
それは、そんなことはないと思う。同じだと思うけどなぁ。でも、思うのは、この間のセッション(編注:トリビュート・バンド練習参観時、1998年7月26日)で大ニとすごい久々にやって、何の苦もなく合っちゃう。その時は本当に岡井大ニに感動しちゃった。こんなすごかったんだと思って。こんなすごいドラマーがまだ日本にいたんだー、と思って。
今の言葉大々的に書いちゃおう。お歳暮が来たりして(笑)
お歳暮期待。ヨイショってカッコで書く(笑)。

 

「PRINTED JELLY」あたりから、佐久間さんの曲が増えているんですが、あの収録曲は、全部このアルバムのために書かれたんですか?
うん。“シテール”だけは、僕が大学の時に友達とやってたバンドの曲のリメイク版。
詞もその時のまま?
出だしとかは一緒かもしれない。
この頃になると、アルバムのトータルなイメージを考えてから作曲されていたんですか?
いや、大して考えてない。というか、“脱プログレ”だね。
そうすると、「包」の方がよりトータル・コンセプトな感じですか?
いや、同じですね。あの2つは僕にとって同じ延長上で、むしろ変な言い方だけど、四人囃子がどう佐藤満に歩み寄るか、みたいなアプローチですね、あの2つは。佐藤満にどう歩み寄るかの僕にとっての集大成は、“拳法混乱(カンフージョン)”(編注:四人囃子としては、シングル・レコードのみ発売)。あれは、自分にとっては明らかに佐藤満のために書いた曲。
満さんのギターソロは、割とハード・ロックな感じなんですけれど、あれは打ち合わせしないで一発録り?
うん、何も。で、「NEO-N」が、僕にとってのプログレなんだけど、逆に“四人囃子解禁”みたいな、四人囃子という名前でやる必然を再度もう1回見つめ直したっていうのが 「NEO-N」ですね。だから「NEO-N」に関していえば、逆に佐藤満は素材でしかないっていうか。
「包」って、曲はともかく、外から見るとコンセプチュアルに見えるようにまとめてありますね。
うん、見えるように...あれは後からの捏造です、実は。「包」という言葉も含めて。帳じり合わすために、僕がなんか捏造したようなもんですね。
アルバム・タイトルは「PRINTED JELLY」も後づけなんですか?
そうですね。
「PRINTED JELLY」って、誰が?
僕。
そういう“脱・四人囃子”なポップ寄りの音楽をやるという時にでも、実は現代音楽ぽいのものもやりたいなーということは?
うん、実はね。実は、本当はそうだったんだけど。あの時点でポップ路線を打ち出した僕に、大ニや坂下が割と同調してくれちゃったのが、逆に僕にとっては混乱を生んだというか...。実は、否定して欲しかった部分が僕にあったと思う。
否定して何か違うものを提示して欲しかった?
そう。
ただ、大ニさんって元々はポップな...
そう、実はね。ポップな人だったから。
坂下さんにしても“ビートルズ”だし。
そうそう。
逆に言うと、最初の出方と言うか、1枚目の「一触即発」があのように、プログレとして評価されてしまったから、メンバーの本音の所と違った...
そう。「PRINTED JELLY」で言えば“N.Y.C.R.R.M.”みたいなのを出して、それが通るとは思わなかったからね、彼等に対して。

通っちゃったから、逆にちょっとヤバいぞ、と思って“バイオレット・ストーム”作ったみたいな。ポップ化という意味がヘンに素直に通っちゃったというか。

全員で、“原点回帰”しちゃった?
うん。
それは、みんなで期待を裏切りたかったからとか?

うん、たぶんね。だと思うんだけどね。

 

「PRINTED JELLY」の録音時、メンバーの“位置関係”は“イーブン”な感じだったんですか?
そうですね。ただ、四人囃子をもう1回やろうってきっかけになったのが“ハレソラ”だったから。
“ハレソラ”が出来たのは、満さんがきてから?
佐藤満を入れると決める前だったと思うんですけどね。大ニの家で僕があの曲を、こういう曲、ってやった覚えがあるんだけど。
それが妙に“核”になってしまった感じがあって。僕は単なる“パーツの一部”として提示したかったのが“核”になっちゃったから、こりゃあ抜き差しならないなぁ(笑)、困ったぞ、と。あれが“核”になっちゃったから、しょうがなくてその次で、“眠たそうな朝には”っていうのをその続編として作ったっていう。
「包」になると、フュージョンぽいというか...例えば“モンゴロイド・トレック”みたいな曲が出てくるのですが...
あれは佐藤満から出てきたから。
実は、僕としてはちょっと困ってた。“モンゴロイド”は、フュージョンとは呼ばないけどインストで、佐藤満のルーツがモロに見えちゃう感じがするし。あの時は“モンゴロイド”と坂下の一連の曲かな、結構困ったのはね。

曲自体は、一般的な音楽として坂下の曲とか良い曲なんだけど、あの時点での四人囃子としてその中に入っちゃってよいのかっていうと困りましたね。

ただ、これはバンドのしがらみとして「ダメ、これは」と言えないものもあって。僕が、四人囃子に対しては最後までそうなんだけど、いまだにそうなんだけど、あくまで“新参者”という意識が抜けなくて。“二代目ベース”っていう。

 

「PRINTED JELLY」がロックへの回帰だとすると、「包」は?
「包」は「PRINTED JELLY」の延長。
収録曲は、そのレコーディングに向けて書かれたものですか?
うん。昔の曲はないですね。
「包」リリースの頃に発表された「シンセサイザー・テクニック(vol.1〜3)」とは?
これは、単なるお仕事と興味と趣味の延長。話が来たのはローランドからかなぁ。開発を含めて色々付き合っていたから。あとは、その時代、理論的に分かっている人が少なかったから。
「包」を作った時というのは、ここまでお話をお伺いしていますと、かなり終わりが見えていたというか...
うん、そうですね、実はね。で、坂下が辞めるであろうっていうのも何となく見えてたし。ただ僕にとっては、いまだにそうなんだけど、四人囃子っていうのは結局、岡井大ニのバンドであって、彼がいる限り四人囃子だと。だから、“ジェネシス”における“フィル・コリンズ”みたいなものなんだよね、僕にとってはね、実は。
“新参者”という感覚があったのなら、好きな時に辞めても構わないだろうという考えとかはなかったですか?
四人囃子という“土俵”を使って自分でできることというのが、いまだあったから。その中で、とりあえずケリをつけたいってのがあって、それが「NEO-N」。自分にとっての、70年代から続いた日本のプログレへのケリをつけるみたいな。
売れてお客さんが喜んで、ということへの未練のようなものは?
それは別になかった。
「包」を出した後、他のメンバーは四人囃子に、もはやこだわっていなかったんですか?
どうだろう...。たぶん、僕が一番こだわってたかもしれないね。“四人囃子、もう一度観たいな”は、僕が一番強かったんじゃないかな。
それはやはり、出発時点で“好きなバンド”だったから?
うん。多分、僕が本当に岡井大ニを好きだったからじゃないかなって。

 

岡井さんがインタヴューで、「NEO-N」をもっと聴いて欲しいと盛んにアピールされているんですが、佐久間さんは、もし今聴いて欲しい、あるいはもう1回録ってみたいというと?
「一触即発」だけでいいな、僕は。
「NEO-N」をもう一回やり直したいというのは?
ないですね。ミックスをやり直したいというのはあるけどね。僕はやっぱり「一触即発」だね。っていうのは、「NEO-N」に関しては僕1人でもできちゃうことだと思うのね。時間はずいぶん経っちゃったんだけど、 「NEO-N」は「in a garden」(編注:佐久間さんのセカンド・ソロ・アルバム、1991年リリース)の前振りみたいな感じだし。そこへ四人囃子というバンドを巻き込んでしまったみたいな感じがあって。で、あの頃、僕はすでに“プラスティックス”を始めてて、実際に 「NEO-N」のコンセプトはもうプラスティックスでは実践してた時であって...
そのコンセプトに演奏の裏付けがあるような?
そうそう、それの“人間版”みたいな(笑)。
 
スタンス的には佐久間さんに主導権があったように感じるのですが...
うん、なってましたね、実際はね。
この頃には最初からのメンバーは岡井さんだけなんですが、すっかり“下駄を預ける”っていう形ですか?
ですねぇ。「NEO-N」は「NEO-N」で、やってる時はもちろん真剣にやってたんだけど、今にして思うと僕としては、こういうと大ニに悪いんだけど「なんだかなぁ」っていう感じはあって。なんか、ちょっと悪いことした感じは残っちゃいますね。
もしかすると「NEO-N」って、佐久間さんにとっての「一触即発」なんですか?
うん、そうそう。でも、四人囃子っていう名前のバンド形態ではやるべきことじゃなかったんじゃないかなって気はしますね。
もっと別なやり方があった?
っていうか、あの時はあれでいいとは思うんだけど、なんか...ちょっと違うなぁって。それは同様に「DANCE」に関しても、僕は同じ後ろめたさを感じるんだけど。それぞれ作品としてはいいかも知れないんだけど、自分にとって素直にどうなのかなっていうと、自分の中の四人囃子っていうイメージに中途半端に縛られてやったもの、みたいな感じがしますね。
自分のソロアルバムを四人囃子で作ってしまったような?
ひどい言い方をすると、自分のソロ・アルバムをあんまり気に入らない面子(メンツ)と作ってしまったみたいな感じ(笑)。否定的に言えばね。ただ、僕はその人達とやりたかったんだけど...

 

一般に、「一触即発」は非常に高く評価されていますが、我々としては、「一触即発だけが四人囃子なのか?!」っていう気持ちになってしまうのですが...
音楽を遊びとして捉えて、その中で真剣に遊べる、っていう意味で、四人囃子の「一触即発」ってのは僕はすごいと思う。

そのすごさがあって、それ以降のものっていうのは、例えば 「GOLDEN PICNICS」に関していえば、遊びっていう部分が逆に先攻しちゃってて、「PRINTED JELLY」以降は、僕がその遊びっていう部分を毛嫌いしていた部分があって。遊びの要素をもう入れないみたいな。

比べるのは変だけど、「NEO-N」って、“P-MODEL”とかとすごい近いと思うの、実は。

マスコミの評価では、「四人囃子はプログレ」となるんですが、どのように感じられますか?

それは誤解だと思うから。四人囃子は“ファー・イースト・ファミリー・バンド”とかと全然違うものであったし。それはもう“様式美”でも何でもなくて、単に遊びであれをやってただけで、遊びの上手な人達だったんだって。

四人囃子がプログレ・バンドと呼ばれようが、ただのロック・バンドと言われようが全然何でもいいと思うんだけど。

僕の分析では、四人囃子が日本のプログレ、あるいは様式美、日本のPINK FLOYDと言わしめた全ての原因は、岡井大ニのドラムだと思うの。彼のドラミングがそういう風に見せたんだと思う。それだけ凄かったってことだけであって、要するにああいうドラム、ああいうドラマー、ああいうリズム・アプローチがあるロックっていうのが、日本にはありえなかった。その後にもありえないし、海外にも実際にはあり得ない。

ニック・メイスンと岡井大ニを比べたら、岡井大ニの方がやっぱり百倍うまいと思うのね。百倍繊細だと思う。彼のあの繊細さが、全てそれを生んだだけであって。

だから僕が感じる四人囃子っていうのが岡井大ニのバンドというのはそこ。彼のドラムがある限り、汚い音楽にはならない。どんなポップスを持って来ようが「N.Y.C.R.R.M.」持って来ようが、汚くなりようがないって。KISSみたくはなりようがない(笑)。
「N.Y.C.R.R.M.」はKISSなんだけど、実は。まぁ、岡井大ニひとりじゃないんだけど。岡井大ニと坂下のハモンドの響きがやっぱり四人囃子じゃないかなぁ、と思うね。
もちろん森園の唄、森園のギターもそうだし、一時期は佐藤満もそうなんだけど。

四人囃子のデビュー当時、「一触即発」ってものすごい衝撃だったんですよね。でも、その後も聴いてきている立場からすると、その後も同じ様な衝撃受けてますし。だから即発、即発って言われるとなんか悔しくて。それを何とか伝えたいなって思ってるんですけど。なんかいまだに即発になっちゃうのは嫌だなぁ、もうちょっと他のも評価して欲しいなぁ、って。
僕にとっても、僕が入る前の話だから、当然「即発」はあるんだけど。やっぱり僕にとってみれば、19〜20才の子供達があの演奏を出来たっていうのは、それを今現在、僕が職業の耳で聴いてても、日本の音楽界において異常な出来事だよね。ありえない出来事。

あの時に19〜20才の子供達があんな事をやったなんて、後にも先にもたぶんないだろうから。そういう意味で僕にとって即発っていうのは、やっぱりスゴイことですね。僕には到底真似できないこと。僕が19〜20才の頃にあれはできないですね。2才しか違わないけども。

四人囃子が出てきた時に、知的に感じたんですね。それまでの日本のバンドって泥臭くて。それに対して知的にひねって、クールで。でもそれって結局その後も続いてるんですよね、アルバムは変わっても。色々“揺れ”はあったけれど、同じように衝撃だったし。
僕が「一触即発」にこだわるのは、年齢もそうだけど、今、僕が職業でやってる耳で聴いても、明らかに天才の集まりだよね、四人揃って。
天才としかいいようがないよね、あれは。あのアルバムの中で僕が一番感じるのは、 「空と雲」なのね。あんなことできるはずないんだよね、19や20才の子が。全てのパートが。あれはやっぱり異常だよね。

四人囃子以降、僕が若者で初めて似た感じがしたのは、“リトル・クリーチャーズ”。高校卒業と同時にデビューした時に似たような天才を感じたけど、ただ、いっちゃ悪いけど、粒は小さくてね、四人囃子と比べれば。その2組しか聴いた ことがない。そんなバカな、って思えるような。

「PRINTED JELLY」以降とか「GOLDEN PICNICS」にしてもそうだけど、自分がやってるのを差し置いても、それは感じられないのね。いい作品だなとか、思えても。そんなバカな、っていうのは。

それはこれだけ長年、職業でやってきた人の耳で聴いてそうだから、そうなんじゃないかなぁ。だから、本当によく冗談でも言うけど、四人囃子は僕が入ってダメになった、っていうのがね。
僕が入ってだめになったっていうのも変な言い方だけど、真一が抜けてだめになった。ダメになったっていうか、中村真一が抜けたところで1コ終わったっていうのが事実だと思うね。

中村真一は本当に凄かったと、僕は今でも思う。わりと最近もベース関係の本で書いたんだけど、中村真一のこと。やっぱり今だに自分の人生の中において、あんだけすごいベースは観たことない。外タレも含めてね。
中村真一は日本のロック史を語る上で惜しい人材だったね。僕は同業者としてほんとに惜しいと思うね。ありえなかったからね、ああいうベーシストは。

 

プラスティックスについて...プラスティックスのアルバムが出たのは1980年ですが...
でも「NEO-N」の時には、もうプラスティックスをやってた。
プラスティックスとのキッカケというのは?
全員友達だったんですよ。プラスティックスっていうバンドは、僕が入るより前からずっとやってて。“セックス・ピストルズ”のコピーバンドでね。
プラスティックスに参加される時には、何か構想がおありだったのですか?
いや、別になかったんだけど...たまたまドラムとベースがバンドから別れて、それで僕に「ベース弾いてよ」っていう話がきて。

で、そのあとで、「リズムボックスでやってみれば?」っていう話をして。僕はプラスティックスを友達として知ってたときからすごい才能を感じてたんで、自ら積極的にプロデューサーとしてやりたいなぁと思ってて。それで、「メンバーとしてちょっと手伝って」という話になって、それからずるずると...。

僕は本気でプラスティックスをいいと思ってたし、本気で世界中に通用すると思えたし、日本でも絶対ヒットすると思えたから。

四人囃子とは全然違う位置付けで?
もう、全然。四人囃子を含めて当時のロック・バンドがテクニック至上主義になってたから、完全にそれへのアンチ・テーゼ。
シロウトの集団でも良い音楽はできるし、売れるものはできるんだよっていう。
プラスティックスで実質的に音を作ってたのは佐久間さん?
ですね。でも、コンセプトはあの3人。
囃子を続けるよりプラスティックスの方が...
うーん、楽しかった...ですね。四人囃子はもう終わるのが目に見えてたから。
もうその頃にはアレンジャーだなんだで仕事を始めてたんで、その中の一連の活動としてはプラスティックスの方が楽しかったかな。
プラスティックスの解散が1981年12月となってますが。
プラスティックスに関しては、80年の後半には僕は辞めるといってて。たぶん夏ぐらいかな。で、契約だなんだってあったんで、81年まで。
ということは、セカンド・アルバムがでたあたり?
うん、もう辞めるってなってて。でも、じゃあもう一年やりますかって。
後に再結成する時に佐久間さんだけ反対されてたそうですが。
そうそう。
その理由は、時代的にやりたくなかったから?
じゃなくて、面倒くさかった(笑)。別にいつやってもいいんだけど...だって音楽的なシワ寄せは全部僕にきますから。
だから、後で再現するのにはどうやったらいいかとか、そういう問題があって。
プラスティックスを辞める時の動機っていうのは?
それはもう成功しちゃったから。色物で成功しちゃえば別になんか...方法論は正しかったっていうだけで。

で、あとは80年代のアタマに、僕自身にあった問題っていうのが、プラスティックスやってて、で、次どうするかっていった時に、プラスティックスはもう辞めるとして、そうするとニューヨークに残るか、東京でお仕事するかっていう二者択一しかなくて。
 ニューヨークに残るっていうのはその時代のニュー・ウエーブ・シーン、トーキング・ヘッズだB-52’sだ、って。具体的には、僕は残っていればB-52’sに入ってたろうなって思うんだけど。

で、そういう事をやるか、あるいはイギー・ポップと何かやるとかと比較した時に、東京の音楽シーンの方がずっと面白かったのね。
ちょうどアイドル御三家、マッチ、トシちゃん、キョンキョン...そういう時代で、そっちの方が純粋に音楽的にお仕事として興味深かった。
僕がプラスティックスやって、ワールド・ツアーやって、アメリカで一緒に回ったりしたどんなバンドよりも、マッチとかトシちゃんとかの方が面白かったわけ。

どのあたりが?
音楽的に興味深かった。それに、筒見京平とかそういう天才作曲家がいるのも面白かった。

 

歌謡曲に対するスタンスはどうでしたか?
世界中って言うか、僕が回った世界中ね、その時代にどんなバンド、アーティストの中に例えていえば、キョンキョンみたいなかわいいものはなかった。
うーん、お話をお伺いしているとますます複雑に混じり合っているんで...例えばそうおっしゃる佐久間さんがいきなり「LISA」を出してしまうとかね...。そこら辺がどう解釈していいのかなって...
いや、解釈も何もないんですけどね(笑)。例えば、キョンキョンで僕が初めてやった曲が“真っ赤な女の子”っていう曲で、♪真っ赤な真っ赤な女の子♪っていう。そんなバカな音楽が世界中にありうるかっていう(笑)。
しかも、かわいかった。で、かわいくて、よくできてるの、どう考えても。
それって、例えばコニー・フランシスとか、そういう世界になっちゃうのでしょうか?
いや、そうじゃない。既に日本独自のもの。コニー・フランシスの世界だったら僕は向こうにいたと思う。じゃなくて、もっともっと興味深い日本独自のものだし。

で、アイドルものと同時に僕はコマーシャルの音楽がすごい忙しくなってた時で、その当時の日本のコマーシャルほど先鋭的な映像 に対する音楽のアプロ−チ、ハリウッドの映画音楽は別だけど、以外ではありえなかった。その先鋭的なコマーシャルに対する先鋭的な音楽をできることも面白かったし。

何をやってもアリだった。その都度クライアント(編注:広告発注主)や電通(編注:広告代理店)とはモメたけども、結果としてちょうど時代的にそれまであった“明るい・楽しい家庭用コマーシャル”から、初めて“アートっぽいコマーシャル”が出てきたところで。
例えばコマーシャルの中で一番モメたので僕が覚えているのは、電通の仕事でセイコーのCMやったんですど、その中で僕はマイナーの曲をやった時にもうメチャメチャ大モメして、現場で。朝10時に始めて、夜中の3〜4時までモメた結果、僕がそれを押し通して、それが翌年の電通賞になったっていうCMがあって。
その時にCMでモロにマイナーの、しかも“暗ぁ〜い”ものってありえなかった。でも、それを押し通せる時代性とパワー、それがあって、その結果それはすごいよくて、評価されて。すごい面白い変わり目だったのね。

それと同時に、そのアイドル音楽を含めて、僕はプラスティックスやってた頃に、例えばB-52’sやトーキング・ヘッズなんかと付き合ってて一緒に音楽やったり、イギー・ポップと一緒にやったりしてて。で、イギー・ポップと一緒にやるより、マッチの唄をレコーディングしてる方がずっとエキサイティングだったの、実は。

素材としての面白さ・楽しさ?
なんかエキサイティング。イギー・ポップよりマッチの方がずっと何かあったの。で、B-52’sよりキョンキョンの方がずっとキュートだった。それで、僕は日本に残ることに決めて、プラスティックスを辞めて。
佐久間さんって、やはり“型にはまる”のが嫌っていうか、アヴァンギャルドなんでしょうね。
うん、たぶんね。
四人囃子の後に“色々と感じられた”ことから、無意識的に避けた...?
うん、部分もあるだろうね。例えばあの時に“ツェッペリン”に入ってくれとか、PINK FLOYDに入る話があったらば受けてたかな、と思う、われながら(笑)。
そのレベルだったら受けたと思うんだけども、イギー・ポップじゃやっぱり受ける気にならなかった。デヴィッド・ボウイだったら、もうちょっと真剣に考えたけど、でも結局ワン・ツアー受けるくらいの話だろうなと思うし。
実は当時リアル・タイムで“真っ赤な女の子”買ったんですよ。で、一緒に買ったのが“夏色のナンシー”。
あ、ほんとに?!茂木由多加。
それを聴いて、あ、佐久間さんだ、で、こっちは茂木さんだ、って。
あの時に僕は茂木が“夏色のナンシー”やったのを聴いて、負けたーと思って。今聴くと“真っ赤な女の子”の勝ちなんだけど。あの時はねー、ショックだった、“夏色のナンシー”。

“真っ赤な女の子”の方が素朴なんだよね。“真っ赤な女の子”ですごいおかしい話があって。あの時ドラムが山木秀夫で、ギターが北島健ニで、ベースが僕で、ピアノが茂木由多加かな。あの当時、まぁ今でもそうなんだけど、ドラムの譜面てのはキック、スネアのパターンしか書かないわけ、せいぜい。で、下手すりゃ何も書かない。で、それしか書いてなかったから、山木秀夫はハイハットを一切叩いてないの。ドン・タ・ドント・タしか。で、録っといて僕も気付かなくて、山木くん帰って、ダビングになってハッと気付いて、ない!ハイハット叩いてない!(笑)

譜面通り叩いちゃった。
そう。おそるべし奴(笑)。録ってる時にはそれで成立してたのね、全然。で、そうかぁって思って。あれは勉強になりました(笑)。
あれがねー、山木くんとの初仕事。それ以来、書くようにした(笑)。で、山木くんは、書いてないからないのをカッコイイと思ってやってた。すごいと思って。僕は僕で、当然叩いてると思ってたから(笑)。お互いに。

 

80年代に入っちゃうと四人囃子的なバンドは逆に苦戦しちゃうんですよね。
大ニは結構いっぱい仕事してたけどね。岡井大ニは結構いっぱいやったけど、僕は。
あ、スタジオで?
うん。色んなのを。CMからレコードから。
じゃあ、その流れで PEGMO とやったんですか?(“SOSペンペンコンピュータ”82年9月リリース)
さぁ、それは何できたのかよく分かんない。たぶん、MC-4を使える人がいなかったんじゃない、身近に。それで、オペレーターに頼む代わりとか。とりあえず佐久間に頼めば平気だろうっていう(笑)。

 

ソロ・アルバムについて...ソロ・アルバムがこの辺りで出ているのですが、何か「満を持して」とか?
ううん、それはたまたま話が...。ビクターでミュージック・インテリアっていう環境音楽みたいなのをやりたいって話があって。じゃ、やろうかって。
曲はそのアルバム用に全部書かれたんですか?
うん、全部その場で。その日に。
“第三の男”のカバーとかが入ってますね。
ああ、あれは僕が冗談で弾いたらば他の二人が合わせてくれたんで、録ったっていう。他の曲は録る日にスタジオに向かう車の中で考えて。
あとの3枚は、ほとんど同じ頃に作ってたんですか?
その後の「REPLAY」と「in a garden」は一緒の年に。同じ日に2枚同時発売。たぶん91年くらいに作った。「REPLAY」のジャケットデザインをしてくれた中条さんっていうデザイナーの人がいるんですけど、その人の個展用に作った。「個展やるんで何か音楽選んでくれる?」っていう話がきて、僕は選曲するの面倒臭いんで、だったら作った方がいいやと思って。それで作って。
あれは即興的に短い曲を録ったって感じですか?
うん、即興。
2枚同時に出されたっていうのは、何か意図があったんですか?
うん、「in a garden」を唄ものにしちゃったから、それを出すとそういうのやりたくって無理矢理出したみたいになんのがいやだった。せっかく新しいレーベルで新しく出すんだったら、この人は何をやるか分かりませんよ、ジャンルは、って。

その先の「これやって、あれやって」っていうプランがあったから、そのためには、その「REPLAY」と「in a garden」っていう、全然別のジャンルを同時に一回に出しちゃうのが、その後動きやすいかなって。

全般的に静かな曲が多いんですけど、何か気分の上で変化が?
元々ああいう人なんじゃないかな?僕にとっては「in a garden」も「SANE DREAM」もかなりロックなんだけど、そういうことなんじゃないのかなぁ。
流れから行くと、それこそロバート・フリップみたいな“ギター・トリオ”、ああいうのをやっても全然おかしくない?
多分ね。今やろうとは思わないけど。「REPLAY」「SANE DREAM」とやった時に次の4枚目ってのが自分の中で決まってて。それはテクノだったんだけど、それは できなかったから、いつか時間があってソロやるとしたらテクノかな。
それはずっと前からあるという企画のことですか?
うん。テクノとあと、昔、仲良かったミュージシャンと一緒にやりたいっていう2つがあって。
「REPLAY」ができた年に“DOG HOUSE STUDIO”をお作りになったのですが、2枚同時作成という点で、そのスタジオ設立は大きかったんですか?
ううん、それは全然たまたまで。“DOG HOUSE STUDIO”は、自分の仕事上使いやすいというだけで。
 自分の音楽やるのには、スタジオがあろうがなかろうが、どこでも構わないから。「SANE DREAM」に関していえば、“DOG HOUSE STUDIO”で作ったけれども、営業が全然入らないから、しょうがないから使ったっていう(笑)。
“DOG HOUSE STUDIO”は、このアルバム録音が一番最初ですか?
うん。

 

DANCEについて...「DANCE」ができた頃のお話なんですが、他のメンバーは、佐久間さんから「もう1回、四人囃子という名前でやる気ある?」って打診されたとのことですが...
いや、BMGからそういう話が来てて。それで、大ニと坂下がうちに来たんだと思うな。そうでもなきゃ集まらないから。で、どうしようかってところで。そんな話だったと思うけど。僕からは話は でない。「DANCE」はね、あれは僕のPINK FLOYD。
じゃあ、MZAのライブでレーザー使われたのもFLOYDの影響?
ううん、あれは別に。照明の人がたまたま。
「DANCE」を作るにあたって、何かコンセプトとかは?
それはもう、その時できる楽曲で。
でも、四人囃子ということをイメージして?
うん。で、たまたま“DANCE”という曲があったから「DANCE」というアルバムになったという。
一番最初にできてたんですか?
最初だったかな...でも、多分そう。
“核”になる曲?
うん。
解散されてから久しく一緒に演奏していない時期が長いわけですが、彼らだったらこういう音を出すだろうという想定で書かれたんですか?
うん。ただ、「DANCE」に関しては、ギターを僕がやってるんで、かなり自由に。
残りのギターのお二方に参加していただくという予定はあったんですか?
なかった。っていうか、それだったらばやらなかっただろうなと思う。
一時期、5人でも四人囃子だったから、3人でもありだと?
別に人数は関係なく。やろうって言った人が。

全然、本当に素直な気持ちとして、例えば大ニと森園が四人囃子って名前で来年やろうっていったら、それで別に、僕はそれで何も違和感を感じないし。

極端な話、坂下と茂木が四人囃子って名前でやろうとしても別にいいと思うし。それは関わった人がどう名前使おうがいいと思うし。

あのアルバム、大ニさんの作った曲と佐久間さん作成曲とで“傾向が違う”にもかかわらず、まとまりがありますねぇ。
まとまるように、捏造(ネツゾウ)した(笑)。プロデューサーが苦労したんです。
「DANCE」を作る時には期限とか決めてらっしゃらなかったんですか?
いや、それは決まってた。
1枚のみっていう?
うん。
それは本人サイド?会社サイド?
両方で。一枚しかやらないって。
ライブ・アルバムを出すというのは?
それは最初の時点ではなかったかな。その話は始めてからかな?「ライブもやろう、ライブ・アルバムもやろう」って。
残りの2人も入れてという話も?
それも。
あの当時の岡井さんのインタビューでは、「その後も続けていく可能性がある」とおっしゃっていたんですが...
うん、あの人はそういう人なんです。(笑)
大二さんのほうでは、「今年はもう一度四人囃子を」っていう意気込みがあるように感じてますが...
楽しみですね(笑)。

 

GLAYは四人囃子知っているのか?...えっ?
プロデュースされてる若い方々って、四人囃子っていうバンドを知ってるんですか?
GLAYは知らない。ジュディマリは知ってる。

佐久間さんとお仕事される前から知っていたんですか?

ちゃんと聴いたことあるかわからないけど、話としては。GLAYに関しては、プラスティックスも知らないんじゃない?ボウイのプロデューサーの佐久間さんしか知らない。

 

インタビューの最後に、えっと聞き忘れてたことは、っと...邦楽の方でプロデュースを頼まれたことは?

ないですねー。唯一、松村和子をやったくらい。

国内外のアーチストでプロデュース、もしくは1(いち)ミュージシャンとして参加したい人はいますか。

ありませんねぇ。というか、なんか仕事は持ちたくないっていうかぁ(笑)。仕事できればしたくない。(笑)

仕事に疲れたときの、気分転換およびリラックスの方法があれば教えて下さい。

犬を触る。とにかく触る。たくさん触る。かわいいよー、ほんと...(^.^)

 

最後にお願いも含めて...やっぱり我々としては、僭越ですが、プロデューサーよりはミュージシャンでやっていただきたいですぅ〜!

ほぉ〜。ワタシはなんでもいいんですが(笑)。

私の方でやりたいのは、あとは犬の訓練の話ですね。これはもうそれだけでホームページができちゃう。2GBぐらいの!

みつるさんもGONちゃんかわいがっているし、四人囃子メンバーの犬自慢とか?
いや、犬とどう接するかという深いお話をね。自慢はしない。だって、自分の犬の方がかわいいに決まってるんだもん。
世間一般で言う、自分の子供みたいなもんですかねぇ?
いや、犬の方がかわいい(笑)。千倍くらいかわいい。しつけない犬と人間の関係っていいですよー。うちは両極端がいるから。