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四人囃子との出会いはどのような経緯だったのですか?
 森園が最初だった。コピーライターをやっていた時、社長の友達のイラストレーターを紹介されたんだけど、それが橋本さんで、過激なアングラ芝居をやっていてボクがそこに出演することになって、そのアングラ劇、まあミュージカルかな?に「はなうんこ」っていうバンドが出ていて、そこに森園がいた。

 森園との直接的な接触は、舞台で森園にブルース弾け、って頼んだのが最初だね。ボクは、そのアングラ劇に、「コーヒーマン」という役で出演してたんだけど、どうも台本が気に入らない。橋本さんにこの台本イヤだと言ったら、「じゃあ好きなようにやっていいよ」。で、即興でやることにしたんだ。台本なし、10分間。。。即興といったら、もうお客を挑発するしかない。若い女性を中心に客をからかうしかなかった。でもそれでも5分しか持たない...後の5分どうするか...で「森園、ブルース弾いてよ!」そんなわけで、その舞台で童謡の「さっちゃん」をブルースでやったんだ。それが森園との始まり。

 ただ、どういう関係で森園がそこに、そのバンドにいたのかはいまだに分からない。森園17才だったかな。ボクが30才の時。年は違っていたけど“タメ”の友達だった。
(編注 : 坂下もこの劇団を観たことがあって、劇団名は“MM”だったんじゃない?とのこと)

 その後、一時期、森園と一緒にバンド作って、毎週、渋谷「ジャンジャン」のステージに上がっていたんだよ。そのきっかけは、『平凡パンチ』の「バンドをやろう」という企画。
 写真撮ったりしていたイラストレータの小林泰彦さんが中心になって、ヤマハなどの協賛で楽器を集めて、写真だけ撮って記事にしたんだ。その時ボクはバンドやりたくて、それらの楽器を借りて、練習場所も成城の友達の彼女の家に確保して、森園にブルース・バンドやろうと声をかけたんだ。他のメンバー(ベース、ドラム、ハーモニカ、キーボード?)は森園が呼んできた。そして毎週土曜日の昼間、渋谷の「ジャンジャン」に出たんだ。ボクはヴォーカルやって、曲は全部森園が書いていたね。

 バンドの名前は“発泡スチロール・ブルースバンド”。なぜそんな名前にしたかというと、燃えると毒を出すから(笑)。いやホントは、鹿島さんという方が犬をつれてヨットで世界一周した(堀江謙一さんの次くらい)という記事の中で、「ヨットで航海中、風がなくてヨットが動かず困っているとき、巨大な白い玉が水平線から現れて、“そよとした風”だけでひゅーっと現れ、瞬く間に通り過ぎていった」というのがあって、あっ、いいじゃないこれ、これだよ、発泡スチロール!燃やすと毒も出すし!

 森園がバンドをやっているのは聞いていた。四人囃子。当時日本の名前のバンドは少なかったんで、名前だけでも好感を持ったね。そんなある日、マネージャーが森園ときて、詩を書いてほしいという話になった。じゃあ、そのバンドを聞かせてよとなったんだ。

 詩を書いてくれって言われて、最初はとまどった。自信なかった。
 で、机の中から「おまつり」が出てきた。「おまつり」は、17才から原案があったんだけど、身内の一人が寺山修司さんと親交があって、寺山さんに見せたら誉めてくれたらしい。ただ、これ散文だったんで、歌詞にアレンジして、森園に渡したんだ。そう、「おまつり」が四人囃子に渡した最初の歌詞だった。

 

コピーライターになった理由とコピーライターという職業はいかがでしたか?またコピーライターから作詩家へという流れはどのような経緯だったんですか?
 大学は演劇科を卒業したんだけど、広告代理店に入ったんです。というのは、当時付き合っていた女性と結婚するには、定収入のある職業につかねばと思ったから。

 広告業は、面白かったですよ。“どんな人も消費者である以上否定されることはない”っていうのが前提で、犯罪者でもゲイでもものさえ買えばOKというのが新鮮な世界でした。
 ただ、コピーライターは自分のことを語れない。クライアントの意志を代弁しているだけ。つまりコミュニケーターなんだ。そして人のことばかり言っていると、自分のことを語りたくなる。バランスですね。そうすると歌の歌詞、なんて思っちゃって。

 ポップスのプロ作曲家坂田こういちさんと。ポーラのコマーシャルで一緒になり、その時コピーを気に入っていただいて、意気投合して、あんた詩を書きなさいと言われた。
で、歌詞を書くようになったんだけど、ひとつだけ売れたのが、高橋基子さんの「ビビビのビ」。モコ・ビーバー・オリーブの高橋さんが歌ってくれた。変なタイトルでしょ(笑)。

 で、あの演歌の大御所、古賀政男大先生の曲に詩をつけたこともあるんだ。当時キワモノで流行った「薬ルンバ」のプロデューサーが、古賀政男さんの曲に詩を、って話を持ってきてね。古賀先生の何十周年かの記念だったかな。その時書いたのが「迷ったよブルース」(笑)。主人公の男が、人生の岐路から日常的な些細な出来事に至るまで迷いに迷うという...まあボケの歌なんですけどね(笑)。たぶんキワモノだった。

 

四人囃子の曲はどのようにしてできたのですか?例えば「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」のケースは?
 「円盤」はねえ、曲ができたの、まあ1晩でした。森園がギター1本持ってきて、ボクの事務所で飯くってから、そろそろ始めるよって、まず詩を見せる、で。ボロボロボロボロ、ギター弾いてしばらく、知らん顔してるのお互いに、で「こんなのどおぉ?」で、テーマ(末松さんメロディを口ずさむ)、それから無茶苦茶になって、またテーマ。
 で「それいいんじゃねえ!ちょっと歌ってみてよ」で、あいつが歌う。
 「あっ、いいよ!いいよ」
 「気に入った?」
 「うん!気に入った」
 「じゃあ、ここからちょっと発展させてみようか」という感じで、もう1週間ぐらいたつとチャンとした曲ができあがってくる、そんな感じでできあがる曲が多かったですね。

 「泳ぐなネッシー」は、坂下君とはそういう感じではなく、森園経由で「ネッシー」が坂下君に行って。で、曲ができてきて、初めて聞いて「いいなあぁ」と。こういうのも楽しい。

 

四人囃子の場合、曲と詩とどちらが先にできたのですか?
 曲が先にできてたことはないなあ。先にボクが詩を書いておいてってパターンだね。
 ただし、演奏してみて詩を修正するってことはあった。その場合、その詩が四人囃子にふさわしくないというのではなくて、長すぎたり、歌いにくかったりという理由だったね。

 長すぎる、例えば「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」。“大作!大作!”というので力が入りすぎりゃった。LP1枚分にも相当する詩を書いてしまい、削除したんだ。(次項参照)

 

えっ?「後はススキが揺れるだけ」で終結していなかったんですか?「円盤兄弟」のその後。。。空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」後日談!
 あの後ね、兄貴がうちに帰って、ベットで寝て。。。寝れないんですよ、弟行っちゃってるから。でね、いつ帰ってくるか、いつ帰ってくるか、待ってるんですよ。そうこうするうちに、もう夜が明けて、夜は白々と明けて、で、木立の間で小鳥がぴーぴーピーピー鳴き始めて、まだ帰ってこない。

 でようやく、もう朝日が昇る頃、「は〜っ、お兄ちゃん、ただいま!」って帰ってくる。
 「兄ちゃんゴメンね、遅くなっちゃった」
 「ばかやろ〜、おまえいつまで行ってんだよ!心配したじゃねえかよ!」っていうんですよ。で「どうだったんだよ?」
 「スゲかった、お兄ちゃん」 「みんな優しくて、みんなスゲーいい匂いして、みんなニコニコ笑ってたよ!」
 「じゃあよぉ、今度乗っときはよぉ、映画に出たことがねえとかいわねえで、俺も乗せてくれよ」
 「うん!わかった、頼んでみるね」つって、それで終わるんですよ。

 

さらにさらに...え〜っ?そうなんですか...?!
 「一触即発」の一部は、森園が勝手に挿入したんだよ。

 “もうとってもいい気分さ、キンピカの時計がいったいどうしたって”...あそこは、ボクじゃなくて森園が作った。ボクに勝手に...でチョット待てよ、そんなドラッギーなこと言うんじゃないよって。あれは結構ドラッギーな世界ですよ。
 だから、あれは入れられちゃってなんだかなぁ〜。バカヤロって、少し頭に来たことがあったねぇ(笑)。こういう風に問題を解決するんじゃ、しょうがないんだよ!って、思いましたけどね。俺に黙ってひっくり返しやがって、ってね(笑)

 

「歌の詞」とは...作詞家とミュージシャンの深遠なる関係
 全部が全部といえないんだけど、歌の詩って第二義になっちゃうじゃないですか、いつも。やっぱ曲のメッセージがメインで。
 それを少なくとも、楽曲と“タイの関係”に持って行きたいなあって思って、うん。

 ボクとしては、詩を書きました、で詩は文字です。。。印刷媒体での出来事です。だけど、これがまた“ぐるりん”とミュージシャンのイメージの中に入って、どのような形で現れ出てくるのかっていうと、ほんと楽しみですね、わくわくドキドキです。

 

いわゆる「ラブ・ソング」は書かれないのですか?
 四人囃子のためにラブソングを書いたのは1つだけ。「二十歳の原点」に入っている「あなたはわたし」ですね。

 恋愛詩は不得手、ダメなんですよ。恋をテーマにしたのはダメ、商業ベースでやれっていわれればやるけど、あまりやりたくない。
まじめに考えちゃうとまるでダメ。できないんです、ホント。「あなたはわたし」が精一杯ですね。

 特にねえ、四人囃子の詩、って考えちゃうと、40代のアーティストがいて、その向こうに若い人がみえるわけで、恋愛とかにとどまっていられないですよ。

 もっと普遍的なメッセージを伝えたい!そういう思いが非常に強いんですよ。。。もちろん恋も普遍的なんでしょうが。

 

(末松さんの詩が)シュール(・レアリズム)と評されることについてはどう思われますか?
 シュールだって、人から言われて初めて気がついた。自分ではシュールだと思ったことないから。だって、ものを考えていると、シュールになっちゃうもの。

 現実だけじゃおもしろくない。そこからどのぐらいイメージを縦横無尽に遊ばせられるかっていうところの勝負だと思っているから。それが結果シュールなのか?それはそれでもかまわない。。。シュールだとすればシュールなんでしょうが、ボクとしてはホントにリアリズムの中に、常に詩としてのリアリズムの中にいるつもりなんですよ。

 たとえ「(空を)飛ぶ」ことがあっても、それはボクにとってはスゴク普通なことなんですよ、ボクのイメージがそうなっているだけで、詩ってそういうもんだと思う。

 

ところで...60年代後半の学園闘争・革命意識についてはいかがだったんでしょう?
 僕自身は(闘争の実践は)ないです。あれは生ぬるいと思っていた。あるとすれば一人一殺、究極のテロリズムだと思っていた(笑)。右翼左翼っていうのかな、テロリズムしかないと思っていたのね。
 でも自分には母親も好いた女もいたし、自分のそういった意志ですべて消滅させるわけに行かないからね。だから思想的には、自分のまわりにも、身近にものすごくあったけどね。

 ただテロリズムにしてもね、当時覆面して新橋でJRの乗客をいきなり鉄パイプで殴るって事件があって、それはないだろ、これは“美しくない”って思った。
 例えばテロリズムの歴史を見ると、ロシアのテロリズムで、広場で皇帝を爆殺しようとして綿密な計画を立て、進めていたんだけど、1つだけ計算違いがあった。その日、皇帝には10才の娘がついてきていると、そこで、やめ、この計画はやめ、って指令をばーっと流したんだそうだ。
 で、そうこれこれこれ!反政府活動にも、こういうのがないと、ロマンティシズムがないと...イヤです。

革命思想と四人囃子メンバー
 (四人囃子メンバーと付き合う上で、革命思想を通ってきたこととの間での)別に違和感はなかったですね。

 彼等の生まれ育った杉並・中野の風土なんですよ。「無意識なリベラリズム」っていうのかなあ、そういうのがあって、彼等は自然でリラックスしていて、最初から好感がもてた。

 

(補論1)末松さんとブルース:日本人なんだから...
 ボクはホワイト・ブルースっていうのかな、それが大好きなんだけど、日本人が、さも黒っぽくやるブルースは嫌い!うそ臭いんだもん!。

 日本人がやるブルースには、それなりの意味があるでしょ?わざと黒っぽくやるなら憂歌団の方がずっといいよ!

 ちなみに森園は、尊敬してたのがジミー・ヘンドリックスだった。子供のくせに。。。子供のくせにってのもないけど、スゴイ知ってて。森園は、ブルースから入って、四人囃子のメンバー間で刺激を受けて、急激に成長したよねえ。

(補論2)『二十歳の原点』とコンフィデンス...
 「二十歳の原点」の作詞者の一人に“コンフィデンス”というバンドがあるけど、この間分かったんだけど、小室等さんの作曲でボクが詩を書いて、1枚だけEPになってるのがある。

 全然売れなかったんだけど。小室さんが振ってくれた仕事。B面ライターだったんで、B面だけ書いたの。映画の主題歌だったような気がする、たしか「街は生きている」とかなんとか。

(補論3)四人囃子の曲をカラオケに入れるべきだ!
 付き合いで時々カラオケ行くと、四人囃子の歌がカラオケに一曲も入ってないじゃない?!
 一曲くらい入っているといいな〜、って思いますよ!たいいち、今まで四人囃子の歌って、一度も歌ったことないんですよ(笑)。